改訂新版 世界大百科事典 「東大寺造仏所」の意味・わかりやすい解説
東大寺造仏所 (とうだいじぞうぶっしょ)
東大寺を造営するために設けられた造東大寺司(ぞうとうだいじし)の下につくられた,仏像製作のための行政機関兼工房。造東大寺司には,ほかに鋳所,木工所,造瓦所などがあり,大仏および金銅仏などは鋳所で製作したと思われる。造仏所では木,乾漆,塑土などを材料とする仏像やその付属品の製作に当たったと思われ,742年(天平14)ころからあった,大和国分寺に当たる金光明寺造営のための金光明寺造物所内の造仏所から発達した。金光明寺時代の746年ころには,造仏長官のもとに史生(事務官)のほか,仏師,銅工など約550人ほどで組織されていた。東大寺時代に入って,762-763年(天平宝字6-7)ころには,造仏所には1619人がいたとされ,それでも鋳所,木工所に比べると仏工が特殊技能者であるだけにはるかに少数である。
造仏所の組織は,長官として2人の別当がおり,1人が技術的な,もう1人が事務的な管理を担当したらしく,その下に将領あるいは領とよばれる事務系統の現場担当者や,長上という現場の技術上の監督に当たる責任者がいた。さらにその下に雑工とよばれる一般技術者がいて,762-763年当時,1292人が登録されている。またそのほか,走り使いをする仕丁,力仕事に当たる雇夫などがいたと思われる。少数とはいえ当時の官で掌握しうる仏工のほとんどを動員したらしく,単に東大寺の造仏にとどまらず,管下のいくつかの寺院造営のためにも派遣されることが多かった。初期には石山寺,香山薬師寺(現在の新薬師寺の前身),上山寺,後期には西大寺や唐招提寺の造像にも当たったことが,遺品からも察せられ,最末期には平安京の東寺,西寺も彼らの手になったと思われる。一方,その人手不足を補うために,まったく私的に設けられた私仏所も存在した。造仏所に正式に属する司工に対して,私仏所の仏工は里人とよばれ,その中の若い見習工には後に官営仏所に入るような者もいたが,逆に熟練工で官営仏所を辞した者が臨時に雇用される例もあった。
仏工たちはかなり徹底した分業制をとっているが,熟練工が難しい仕事,若い見習工が単純作業という現在の常識とは異なって,長上工(頭(かしら)になる仏工)でも,簡単なものから難しいものまで順々にまかされたり,いくつかの工程を兼ねたりしている。東大寺の工事が完成したのち,造東大寺司は789年(延暦8)に廃されるが,造仏所はその後も著しく規模を縮小して存続する。しかしここに残りえたものはごく少数で,大部分は別な職場への転進を余儀なくされた。東寺の造営から真言系寺院に定着したり,奈良の他の寺院(元興寺や新薬師寺の薬師像など)の造立を行ったのも東大寺造仏所の仏工と思われる。そのほか,私仏所に移ったものもあったが,いずれにしても平安初期の造像にかなり大きな役割を果たしている。
→仏所
執筆者:佐藤 昭夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報