松井田城(読み)まついだじょう

日本の城がわかる事典 「松井田城」の解説

まついだじょう【松井田城】

群馬県安中市(旧松井田町)にあった戦国時代末期の山城(やまじろ)。同市指定史跡。上野国と信濃国の国境に位置し、中仙道要所である碓氷(うすい)峠のおさえとされた城で、東西に延びる比高130mほどの尾根沿いにつくられていた。1560年(永禄3)ごろ、安中忠政(『関東古戦録』では「春綱」という名前で記述がある)により築城されたとされているが、すでにこの地には、忠政の父忠親が築城した松井田西城と、諏訪氏が入っていた安中城の支城の諏訪城があり、松井田城がつくられた場所にも小屋城と呼ばれる城があった。甲斐の武田信玄は、箕輪城(高崎市)の長野業政(業正)の死後、手こずっていた上野国への侵攻を本格化させたが、忠政は1559年(永禄2)に、信玄の西上野侵攻に備えて安中城(同市)を築城。その後、嫡子の忠成(のちに景繁と名を改める)を安中城の城主とし、忠政自身は松井田城(小屋城)を修築・強化して同城に入城し、信玄に備えた。松井田城はこのとき、本格的に整備されたと考えられている。1561年(永禄4)、西上野に侵攻した信玄は高田城を攻略して、安中・松井田両城の中間地点の八幡平に陣城を築き、1563年(永禄6)には両城への攻撃を開始した。この戦いで、忠成は信玄に降伏して許されたが、忠政は松井田城を拠点に徹底抗戦した後、降伏したが、信玄から自刃を命じられた。その後、松井田城は武田氏の城となり、武田氏滅亡後は相模の北条氏が同城を占拠したが、その後間もなく織田信長方の滝川一益により奪取された。しかし、本能寺の変後行われた神流川の戦いで北条氏に敗れた一益が上野国を去ると、北条氏の支配下に入った。北条氏は信濃との国境にある松井田城を重視し、天正年間に北条氏の武将大道寺政繁によって大改修が行われた。本丸、二の丸、馬出、櫓(やぐら)など、現在残っている同城の遺構のほとんどは、このときつくられたものである。1590年(天正18)の小田原の役では、政繁の籠城する松井田城は、豊臣秀吉方の前田利家、上杉景勝、真田昌幸ら北国勢3万の攻撃を受け、持久戦となったが、攻撃開始から約1ヵ月後に降伏・開城し、その後、間もなく廃城となった。現在、城跡は山林となっている。堀切、竪堀、空堀、横堀、切岸、土塁など当時の遺構を比較的良好な状態で残しているが整備されていない。松井田バイパス沿いの登城口に「松井田城跡」の小さな看板があり、ここから約20分で山頂に着く。山頂左手に杉林に覆われた本郭跡があり、大道寺政繁の居館跡には、政繁の菩提寺だった補陀寺がある。JR信越本線西松井田駅から徒歩約30分。◇諏訪城、小屋城、霞ヶ城、堅田城とも呼ばれる。

出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の松井田城の言及

【松井田[町]】より

…宿駅としても栄え,戦国時代から近世初頭に六斎市(3・8の日)が催されたという。戦国時代初期には安中氏の勢力下にあったが,武田氏の滅亡とともに安中氏が没落すると,後北条氏の重臣大導寺政繁が松井田城に入って豊臣秀吉の侵攻に備えた。九十九(つくも)川の南の断崖上に築かれた松井田城は小屋城ともいい,安中氏の築城後,武田氏,後北条氏が大改修を加えた。…

※「松井田城」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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