日本大百科全書(ニッポニカ) 「松木荘左衛門」の意味・わかりやすい解説
松木荘左衛門
まつきしょうざえもん
(1625?―52?)
江戸初期の伝説的義民。庄左衛門とも。若狭(わかさ)国遠敷(おにゅう)郡新道(しんどう)村(福井県若狭町)の庄屋の家に生まれたという。戒名松木長操居士(ちょうそうこじ)。彼については、はるか後代の文献中の伝説的記事しかない。小浜(おばま)の豪商木崎惕窓の『拾椎(しゅうすい)雑話』(1757)によると、京極(きょうごく)家か酒井家の初めに小浜藩では大豆納年貢の一俵四斗入りを四斗五升入りに改めたのに対して郷中一統して訴訟したが入れられず、うち数百人が旧制に戻すことを要求して押しかけた。藩はこの願いは入れたが、徒党の罪で張本人の松木を日笠(ひかさ)河原で磔刑(たっけい)に処した。以後、秋大豆を彼に供えるのが、郷中の慣例となったという。藩士嶺尾信之(みねおのぶゆき)の『玉露叢(ぎょくろそう)』(1720)もほぼ同じことを伝えるがこれを酒井忠勝(ただかつ)の時代とし、忠勝がその三大失政の一つと認めているとする。1882年(明治15)自由民権家古沢滋(しげる)・城山静一が地元伝承を聞いて松木顕彰の建碑運動をおこし、小室信介(こむろしんすけ)が『東洋義人百家伝』で彼のために1章を割いて以来全国的に有名となる。小室は口承により、訴願が京極時代の1607年(慶長12)に始まり、19年(元和5)処刑としていたが、その後『玉露叢』などの記事が知られて、忠勝時代の52年(承応1)刑死とされるに至った。闘争の内容や経過については、小室の記述以後発展をみず、不明確。右二書の伝える忠勝時代の貸米ないし売付米の高値強制に反対する小浜町民闘争の張本人磔刑についての記事は、その後忠勝の書状や日記など当時の文書記録により、42年(寛永19)閏(うるう)9月の貸米代銀納入延期闘争で指導者3人が磔刑になった事件の反映であることが確かめられた。また同史料によると、同じころ遠敷郡野代(のだい)、生守(いごもり)、尾崎(おざき)、飛川(ひがわ)の四か村庄屋が当作のことで直訴(じきそ)したかどで、敦賀(つるが)郡の名主5人が年貢未進(みしん)のかどで投獄されており、後者は三千俵もの未進を期限を切って皆済する約束で釈放されている。だが未進は続き、藩は未進を組織する「徒(いたずら)もの」「悪事之棟梁(とうりょう)」は藩主の承認をまたず磔刑にしてもよいなどと通達していることが新たに知られてきた。しかしこれらの史料には松木も新道村も現れず、35~36年だけは大豆が問題となるが、磔刑になるほどの深刻な事態にはほど遠い。松木の事件はやはり1642年の未進闘争の一環で藩史料には現れず、民間には大豆納闘争として伝えられたのではなかろうか。
[林 基]
『小室信介著『東洋民権百家伝』(岩波文庫)』▽『永江秀雄編『若狭の義民』(1981・松木神社奉賛会)』▽『『小浜市史 藩政史料編一』(1983・小浜市)』▽『藤井譲治「『おり米』と寛永19年の騒動」(『小浜市史紀要』第四輯所収・1977・小浜市)』