朝日日本歴史人物事典 「松林伯円(2代)」の解説
松林伯円(2代)
生年:天保5.6.2(1834.7.8)
幕末明治期の講釈師。亭号は「しょうりん」とも。下館藩(茨城県)郡奉行手島助之進の4男に生まれ,幕府作事奉行若林市左衛門の養子となる。本名若林義行。はじめ彦根藩画師向谷石渓の養子となるが,講釈に熱中のあまり離縁。伯母の婚家,若林家に引き取られるが,町奉行筒井伊賀守邸などへ講釈に赴く。ついに伊東潮花に入門し花郷を名乗る。東秀斎琴調門に転じ調林,さらに松林亭伯円の芸養子となり,嘉永7(1854)年に2代目の披露。明治6(1873)年,浅草寺境内に諸新聞訓読場ができ,ここで新聞講談を始めるなど,次第に明治の新風俗を講談に取り入れ,散切り頭,椅子,テーブルで演じ,名を松林伯円と改める。明治18年,神道教導職大講義となり,同年講釈速記本の魁として『安政三組盃』を刊行,25年7月9日には鍋島邸で明治天皇に御前講演を行った。晩年は半身不随となり鶴見に隠棲,不如意であった。同34年に松林右円に3代目を譲り,東玉を名乗った。「鼠小僧」「天保六花撰」など白浪物を創作し,泥棒伯円の異名もとった。日暮里南泉寺で毎年伯円忌が営まれている。<参考文献>延広真治「松林伯円の基礎調査」(『名古屋大学教養部紀要』人文科学・社会科学17輯)
(延広真治)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報