板倉重昌(読み)イタクラシゲマサ

デジタル大辞泉 「板倉重昌」の意味・読み・例文・類語

いたくら‐しげまさ【板倉重昌】

[1588~1638]江戸初期の武将勝重の子。三河深溝ふこうず領主大坂冬の陣講和使者。のち、島原天草一揆鎮定に向かったが成功せず、城を強攻して戦死

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精選版 日本国語大辞典 「板倉重昌」の意味・読み・例文・類語

いたくら‐しげまさ【板倉重昌】

  1. 江戸初期の大名。三河深溝(ふこうず)の領主。勝重の三男島原の乱に際し上使として鎮定に向かったが成功せず、戦死。天正一六~寛永一五年(一五八八‐一六三八

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改訂新版 世界大百科事典 「板倉重昌」の意味・わかりやすい解説

板倉重昌 (いたくらしげまさ)
生没年:1588-1638(天正16-寛永15)

江戸前期の譜代大名。三河国深溝城主。板倉勝重の三男。1603年(慶長8)徳川家康に仕え,近習出頭人として,方広寺鐘銘事件に関与するなど,家康に信任された。大坂冬・夏の陣とも従軍。24年遺領を合わせ1万1850石を領した。のち新墾田を加え1万5000石を領知。37年島原の乱の上使として九州に下る。老中松平信綱派遣の報に接し,38年元旦総攻撃を行ったが,戦死した。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「板倉重昌」の意味・わかりやすい解説

板倉重昌
いたくらしげまさ

[生]天正16(1588).駿府
[没]寛永15(1638).1.1. 島原
江戸時代前期の三河深溝領主。勝重の子。内膳正。家康に幼少から仕え,方広寺鐘銘事件においては家康の使いとなり,また大坂冬の陣 (→大坂の陣 ) の講和に際しては軍使となって活躍,のち,三河深溝の領主となって1万 5000石を賜わった。寛永 14 (1637) 年島原の乱には,上使として松倉細川鍋島,立花らの九州諸大名を指揮したが,原城を落すことができず,幕府は松平信綱を派遣して軍の立直しをはかろうとした。重昌は幕府の処置を恥じ,信綱到着前に落城させようと翌年1月総攻撃をかけたが成功せず,戦死した。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「板倉重昌」の意味・わかりやすい解説

板倉重昌
いたくらしげまさ
(1588―1638)

江戸前期の幕臣、島原の乱の幕軍主将。駿府(すんぷ)(静岡市)に生まれる。江戸幕府初期の高名な京都所司代勝重(かつしげ)の二男(三男とも)。内膳正(ないぜんのしょう)。駿府大御所時代における徳川家康の近習(きんじゅ)出頭人の一人で、大坂の陣では軍使となる。三河国(愛知県)深溝(ふこうず)領主で1万1000石余を知行(ちぎょう)。島原の乱の勃発(ぼっぱつ)で幕府の征討軍の総大将となった。キリシタン一揆(いっき)軍の抵抗は予想外に強く、幕軍の統率の乱れもあって戦線は膠着(こうちゃく)した。事態を重視した幕府は、老中松平信綱(のぶつな)の派遣を決定。これを知った重昌は、寛永(かんえい)15年(1638)正月1日総攻撃を決行したが、幕軍の士気あがらず玉砕的な戦死を遂げた。

[煎本増夫]

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朝日日本歴史人物事典 「板倉重昌」の解説

板倉重昌

没年:寛永15.1.1(1638.2.14)
生年:天正16(1588)
江戸前期,徳川家康の近習出頭人,三河国深溝藩(愛知県幸田町)藩主。板倉勝重の3男で,母は栗生永勝の娘。重宗の実弟。通称宇右衛門,主水。内膳正。慶長8(1603)年16歳のときから家康につかえ,のち秋元泰朝,松平正綱と共に近習出頭人として厚い信任を受ける。19年大坂冬の陣の契機となった方広寺の鐘銘事件に関与し,大坂冬,夏の両陣にも従軍。重宗(周防守)をも凌ぐ出色の人物と評され,蘇芳色に勝るとの意味で「臙脂内膳」と称された。寛永1(1624)年父勝重の遺領を分知されて大名となり,のち1万5000石。14年島原の一揆制圧のため九州に出陣。援軍派遣の知らせを受け,敢えて援軍を待たずに翌年元旦,総攻撃をかけて戦死。

(大森映子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「板倉重昌」の解説

板倉重昌 いたくら-しげまさ

1588-1638 江戸時代前期の大名。
天正(てんしょう)16年生まれ。板倉勝重の3男。徳川家康につかえ,方広寺鐘銘事件では問題の鐘銘箇所をしらべて家康に報告,大坂冬の陣・夏の陣に参戦した。寛永元年三河(愛知県)深溝(ふこうず)藩主板倉家初代となる。1万5000石。14年島原の乱の鎮圧に出陣,松平信綱の援軍をまつのを恥じて総攻撃をかけ,寛永15年1月1日戦死した。51歳。駿河(するが)(静岡県)出身。
【格言など】新玉(あらたま)の歳に任せて散る花の名のみ残して先駆けと知れ(辞世)

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旺文社日本史事典 三訂版 「板倉重昌」の解説

板倉重昌
いたくらしげまさ

1588〜1638
江戸初期の譜代大名
勝重の子。徳川家康に仕え大坂冬の陣で軍使となった。島原の乱発生に際し征討軍の指揮者となり,松倉・細川・鍋島・有馬などの諸軍を率いて戦ったが鎮圧できず,幕府が老中松平信綱を派遣したのを恥じ,強攻して戦死した。

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世界大百科事典(旧版)内の板倉重昌の言及

【板倉氏】より

…江戸時代の譜代大名。下野国足利郡板倉におこり,のち三河国額田郡小美村に住し,松平氏に仕えたという。徳川家康に仕えた勝重は,駿府町奉行・江戸町奉行を経て,京都所司代となり,1609年(慶長14)には,山城で1万6600石を領した。勝重の子重宗も,勝重を継いで所司代となり,退任後の1656年(明暦2)下総国関宿で5万4000石を領した。その後板倉氏は,61年(寛文1)伊勢亀山,1710年(宝永7)志摩鳥羽,17年(享保2)に再び亀山,44年(延享1)備中松山へと転じ,廃藩を迎えた(松山藩(備中))。…

【島原の乱】より

…27日には有明海をはさんだ天草大矢野島でも蜂起し,やがて島原勢と合流して城代三宅藤兵衛を敗死させ,天草4万石のほぼ半ばを席巻して富岡城を囲み(11月19~23日)落城寸前にまで追いつめた。一揆の報が江戸に達すると,キリシタン一揆として事態を重視した幕府は,板倉重昌を上使とし,佐賀,久留米,柳河の3藩に出動を命じた。彼らが島原に到着する12月5日の直前,かなりの村々は領主側に転じたが,島原南部諸村と天草の一部の老幼男女2万数千人は,石垣だけの廃城となっていた旧領主有馬氏の原城にたてこもり,12月10日以降一揆の第2段階をむかえた。…

※「板倉重昌」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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