稲作の作業次第を模擬的に演じて,その年の豊作を祈願する予祝行事。新春に行われる場合が多く,御田(おんだ),春鍬(はるくわ),田植祭,春田打(はるたうち)などとも称する。地方によって多少の違いはあるが,中心は種まきから刈取りまでを演じる。鎌倉時代初頭の《皇太神宮年中行事》2月の項に〈殖田遊作法〉という行事が記され,田植の予祝的神事がすでにあったことが知られる。奈良の春日大社でも鎌倉時代前期には,正月の行事としてお田植神事を行っている(《春日社記録》)。しかし田遊は中央の大社寺の行事としてより,地方の農山村の行事として定着した。それも修正会(しゆしようえ)の法会が民俗行事化したものに付随する場合が多い。
芸態は,自家の門田(かどた)に初鍬を入れて簡単な唱え言をするものや(春田打,春鍬),わらや松の小枝を苗に見立てて田植の所作を模す簡単なもの(雪中田植),身振りや会話を主に演劇的に稲作工程を進める所(静岡県三島市三島大社の御田打祭,愛知県設楽町田峯の田楽,奈良県明日香村飛鳥坐神社の御田など),唱え言を主にして象徴的身振りを加える所(静岡県森町小国神社の田遊祭,長野県阿南町新野の雪祭)など多様であるが,いずれも歳神(としがみ)や氏神の感染呪術による秋の実りを期待することに変りない。東京都板橋区徳丸の田遊(2月11日)では唱え言と模擬動作を組み合わせて一年の稲作工程を演じるが,太鼓の表面を田面,餅を鍬,松葉を苗などに見立てるなど,実際の農具は使用しない。中部地方の天竜川上流一帯では,阿弥陀堂,四日堂など村堂の修正会の行事に組み込まれた所が多く,悪霊払いの呪師(しゆし)系(呪師)の芸能や,翁猿楽(おきなさるがく),田楽躍(でんがくおどり)などの芸能とともに行われる。この予祝行事を田植前後に行う所もあり,高知県室戸市吉良川(きらがわ)の八幡社の御田祭(隔年5月3日)や,佐賀県神埼市仁比山神社の大御田植祭(申年の4月初申日)などがそれであるが,京都府南丹市の旧日吉町田原多治(たじ)神社の御田(5月3日。古くは旧暦)の場合,演目は種池さらい・種漬け・種あげ・畦塗り・種まき・鳥追・牛買い・田鋤き・苗取り・田植・田の見回り・稲刈りで,作太郎・作次郎2人の会話と模擬動作で進行する。途中子どもの牛や早乙女(さおとめ)が出るなど,稲作の工程としてはもっとも理想的に展開する。田遊に唱えられる詞章や田植歌は,いずれも中世的色彩が濃く,全国的に共通の要素が多い。また東北地方の小正月ころに行われる田植踊は,田遊の風流化されたものである。
→田楽
執筆者:山路 興造
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春の祈年祭(としごいのまつり)の芸能。稲作を中心にした春の耕作始めの儀礼に発し、芸能に成長したものをいい、田楽(でんがく)とはまったく異なる。この田遊に相当するものは、全国に約330か所伝えられてきた。そのなかで田遊の呼称はおもに東海道に限られ、近畿地方から西では主として御田植(おんだうえ)、略して御田(おんだ)とよぶ。これらの多くは正月行事であり、また田植までの表現にとどまっており、収穫の豊年のさままで演じるのは一部の芸能性をもつ田遊だけである。春の耕作始めの儀礼は暦制以前から行われていたが、その慣行を前提に2月の祈年祭が成立した。平安初期の『延暦(えんりゃく)儀式帳』によると、伊勢(いせ)皇太神宮の例では、2月初子(はつね)の日に神田(みとしろ)で年神(としがみ)を祭り、墾(は)り初(ぞ)めをして種を播(ま)く種下(たねおろ)しの儀礼を行っていた。鎌倉時代の初めになるとそれに田植のものまねが加わり、『建久(けんきゅう)儀式帳』には「以藁殖(わらうえる)田遊作法」とある。これが田遊の用語の初見である。2月の作始めの儀礼は熱田(あつた)神宮(愛知県)ほかの古社にもみえるが、それは儀礼にとどまるもので、芸能の田遊以前といえよう。
芸能としての田遊の成立には、寺院の行事の側面を見逃せない。全国の田遊の大勢は正月行事であり、事実、一般の寺院や神宮寺(じんぐうじ)の修正会(しゅしょうえ)に行われてきたものが多い。暦法による年頭正月の上弦(しょうげん)から上元(じょうげん)に至る「修法(おこない)」は、飛鳥(あすか)時代の持統(じとう)朝から始まり、祈年(としごい)の性格をもっていた。平安中期からその修法の完了の段階で修正会が開かれ、宴遊の「延年(えんねん)」が催される。この延年のなかで田歌(たうた)や田植風流(ふりゅう)が演じられ、芸能の田遊が育っていったものとみられる。修正延年の田遊は、作始めの儀礼的要素を取り込み、神仏の供田(くでん)から殿原衆(とのばらしゅう)(荘園(しょうえん)村落内の名主(みょうしゅ)や荘官などの階層)などの田作りを含め、古典田歌を活用して、猿楽(さるがく)、狂言、千秋万歳(せんずまんざい)の手法を学び、田打ちから収穫までのトータルな芸能としての内容をつくりあげた。その時期は鎌倉から室町期と推定できる。紀伊半島のかつての高野山(こうやさん)荘園地域や東海道筋の田遊では、修正会とともに荘園制の社会的背景のおもかげをとどめ、北陸地方の田遊は千秋万歳方式の重厚な内容をいまに伝えている。なお、東京都板橋区徳丸、赤塚に伝承する田遊は国の重要無形民俗文化財に指定されている。
[新井恒易]
『新井恒易著『農と田遊びの研究』全二巻(1981・明治書院)』
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…また田植の囃しや田楽躍に用いる太鼓を称する場合もある。広義の田楽は,(1)田植を囃す楽,(2)職業芸能者である田楽法師による芸能,(3)風流(ふりゆう)田楽の三つに分けて考えるのが便利であるが,日本の民俗芸能分類の用語としての田楽には,予祝の田遊(たあそび)やその派生芸能を含めることが多い。
[田植を囃す楽]
稲作の諸工程のうち,田植に囃しや歌を奏するのは日本固有の儀礼ではなく,広く照葉樹林文化圏の特色であったらしい。…
…日本でも早くから行われ,《栄華物語》によれば,平安時代中期には早乙女,腰鼓・笛・ささらなどの囃子,田主(たあるじ)夫婦,昼飯持ちの一行が出る実際の田植行事が,貴族の賞翫(しようがん)の対象となっていた。中世の囃子をともなう田植のようすは,《法然上人絵伝》や《大山寺縁起絵巻》に描かれているほか,全国に残る田遊(たあそび)などにその面影が残る。また中世末期に中国地方の囃子田で歌われた田植歌は,《田植草紙》として残り,中世庶民歌謡の宝庫とされる。…
…民俗と称するのも,それが地域における社会慣習と認識されたためであり,事実,それらの芸能の多くは,土地や人の繁栄,息災を祈願する儀礼として,季節のおりおりに催す地域の祭りに毎年演じるのをならわしとした。すなわち,農耕生活を主体に社会を形成している日本では,年の初めにまず当年の穀物の豊穣を祈願予祝する祭儀を営むが,農村ではこのとき田遊(たあそび),春田打(はるたうち),御田(おんだ),田植踊などと称する芸能を演じる。田の土ならしから稲の収穫にいたる稲作の模様を,歌としぐさ,踊りなどで表現し,このとおりの無事収穫をお願いすると祈るのである。…
※「田遊」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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