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林遠里 はやしえんり

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

林遠里
はやしえんり

[生]天保2(1831).福岡
[没]1906.1.30.
明治の篤農。黒田藩に仕えたが,廃藩後 (1871) は勧農家として活躍。植物の種子は天然のまま戸外で寒水中や地中で過すのが天の理にかなっているとの論理から,稲籾を秋から翌春まで水中や土中にたくわえることを主張した。『勧農新書』を著わし,興産社 (79) ,勧農社 (83) を設立して農法の普及に努めた。

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百科事典マイペディアの解説

林遠里【はやしえんり】

明治期の老農筑前の人。《勧農新書》で寒水浸・土囲法による稲作改良を主唱,勧農社を組織し全国に普及させたが,明治20年代に新進学者に批判された。また福岡在来の抱持立犂(かえもちたちすき)を東北地方に浸透させ,乾田馬耕の新技術を開発した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

林遠里 はやし-おんり

1831-1906 明治時代の農業改良家。
天保(てんぽう)2年1月24日生まれ。もと筑前(ちくぜん)福岡藩士。廃藩置県後に帰農種籾(たねもみ)の寒水浸と土囲法をこころみ,稲の増収に成功し,明治10年「勧農新書」を出版。16年勧農社を設立し,遠里式稲作改良法や牛馬耕をひろめた。明治三老農のひとり。明治39年1月30日死去。76歳。名は「えんり」ともよむ。

林遠里 はやし-えんり

はやし-おんり

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朝日日本歴史人物事典の解説

林遠里

没年:明治39.1.30(1906)
生年:天保2.1.24(1831.3.8)
明治期の農事改良家。筑前国早良郡鳥飼村(福岡市)生まれ。福岡藩の銃術指南役林直内の次男。幼名彦太郎,のち策兵衛,さらに遠里と改める。父を補佐して銃術に励む。明治3(1870)年には鋳砲方出仕。廃藩置県後同郡重留村に移って帰農,農業経営に努める。寒水浸(種籾を寒中水に浸す法),土囲法(種籾を土中に蓄える法)を試み,稲の増収に成功。これを『勧農新書』(1881刊)に著し,好評を得る。同16年改良法を全国に普及させるため私塾勧農社を設立,優れた卒業生を実業教師として各地に派遣,その数は18年から26年までに461名を数えた。彼らは白線入り学生帽,白シャツ,チョッキ,洋風ももひきに紺の手甲脚絆にわらじばきという和洋折衷の姿で遠里農法のほか馬耕術,正条植え,蟹爪(雁爪)打ちなど進んだ筑前農法をも全国に伝え,農事改良に貢献した。22年農商務省からハンブルク商業博覧会出品説明委員補助としてドイツに派遣され,欧米の農業を視察した。このころから陰陽説に基づく彼の農法に対し,横井時敬,酒匂常明ら新進農学者から批判が相つぎ,勧農社はしだいに衰退,32年には一時閉鎖に追い込まれ,失意のうちに没した。近代農学の立場からは遠里農法は欠陥の多い技術であったが,勧農社を通じ馬耕術を中心とする先進的筑前農法を全国に伝えた功績は大きい。著書のほかに『林氏米作改良演説筆記』などの講演筆記がある。<参考文献>須々田黎吉「『勧農新書』解題」(『明治農書全集』1巻),江上利雄「林遠里と勧農社」(『日本農業発達史』2巻),大島清他「老農の群像」(『明治のイデオローグ』)

(田口勝一郎)

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世界大百科事典 第2版の解説

はやしえんり【林遠里】

1831‐1906(天保2‐明治39)
明治時代の農業指導者。三老農の一人(老農)。〈おんり〉とも呼ばれる。筑前国(現,福岡県)黒田藩士林直内の次男として生まれる。少壮期同藩に仕官したが,廃藩置県により帰農し,農事研究に専念した。寒水浸と土囲法との農法を案出し,《勧農新書》(1877)を著す。この農法は寒中イネの種子を水に浸し,あるいは土壌中に貯蔵して春時に播種することにより,収穫の増加を実現しようとするものであった。1883年(明治16)勧農社を設立,指導者を養成して馬耕による抱持立犂(かかえもちたちすき)の深耕農法を全国的に普及させる。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

林遠里
はやしえんり
(1831―1906)

明治期の篤農家、農業技術者。「はやしおんり」ともいう。筑前(ちくぜん)国(福岡県)黒田藩士として生まれたが、廃藩置県で禄(ろく)を失い、農事研究に従事。早くから種子処理にくふうを凝らし、寒水法、土囲法などの方法を考案、1877年(明治10)『勧農新書』を著し普及に努めた。83年「勧農社」を設立、抱持立犂(かかえもつたてすき)を全国に宣伝した。89年農商務省の命で、ドイツ、ハンブルク博覧会出品説明員として出張、ヨーロッパ各地を視察、帰国してヨーロッパの農法を取り入れた経営を試みた。すなわち、勧農社の規模を拡大して23ヘクタールの耕地、耕馬10頭、牛2頭を有し、西洋農具を導入した。林の死後、勧農社は解散するが、一時期その影響は全国に及んだといわれる。[福島要一]

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世界大百科事典内の林遠里の言及

【農業】より

… これに対して農具の改良は民間の努力にまつものが多い。九州の無床犂(抱持立犂)による林遠里の犂耕普及の努力,往復耕のできる松山犂,肥後の㋙犂,大正期に改良を続けた高北犂などによって,往復耕のできる短床犂が大正・昭和期の日本の犂の代表となる。このほか,脱穀機では明治期には鋼板を打ち抜いた千歯扱きの改良が中心となり,その後期から多様な足踏脱穀機製造の試みがなされた後,回転胴に曲がった針金を打ち込んだ足踏脱穀機に定着する。…

【老農】より

…また農会をつうじて老農の優れた経験的な技術の深化と普及が進むなど,明治農法の基礎が固まった。 著名な老農には,イネの品種改良や耕種改善に功のあった中村直三奈良専二,勧農社を組織して馬耕教師と抱持立犂(かかえもちたちすき)を全国にひろめた林遠里,駒場農学校から農商務省の巡回教師となった船津伝次平,勤倹力行を鼓吹した石川理紀之助などがおり,とくに中村,船津,奈良(あるいは林)を明治三老農という。しかし老農も,90年代に農科大学や農事試験場などが整備され,近代的な輸入農学が消化されると,しだいに活躍の場も狭くなっていった。…

※「林遠里」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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