改訂新版 世界大百科事典 「桛田荘」の意味・わかりやすい解説
桛田荘 (かせだのしょう)
紀伊国伊都郡(現,和歌山県伊都郡かつらぎ町)の荘園。笠田荘とも書く。1147年(久安3)崇徳上皇領として立荘されたが,翌年には収公されて公領にもどったらしい。ついで12世紀後半に平清盛が造進した後白河上皇の御願寺,京の蓮華王院(三十三間堂)領となっている。83年(寿永2)神護寺再興に奔走した文覚(もんがく)の強い要請によって,後白河上皇から神護寺に寄進され,翌84年(元暦1)立券された。以後,中世を通じて神護寺領と思われ,神護寺には立券の際に作成されたと推定される著名な桛田荘絵図が伝来する。この絵図は荘園の四至牓示(ぼうじ)をはっきりと描いている点に特徴があるが,全域ではなく荘域の西半分を中心に描いている。これは,立券に際して渋田荘との間に南を流れる紀ノ川の中洲の帰属をめぐって相論があったためである。なお現地の宝来山神社にもこれと酷似した絵図が伝来するが,描かれた牓示の数に大きな違いがある。この絵図は静川(穴伏川,四十八瀬川)からの引水権をめぐって起こった静川荘との相論に関係して作成されたものらしい。ちなみに,静川から丘陵を越して桛田荘に導入される灌漑用水は文覚井と呼ばれており,現地では文覚が立荘の際に開削したものと伝承されている。鎌倉時代初期の田数は,85年(文治1)の検注帳によって約60町歩と推定される。文覚の弟子行慈とその一族である湯浅党が当初からこの荘園の経営に深くかかわっており,湯浅系図にも桛田法橋宗算や桛田尼の名がみえる。鎌倉時代後期には東荘と西荘に分かれていたことが知られるが,この時期以降の当荘の実態については,つまびらかでない点が多い。なお正応年間(1288-93)の悪党事件に関係して,西隣の名手荘(なてのしよう)から悪党が逃げこんで,路辺往反の人々の所持物を奪ったと非難されているように,旧南海道(後の大和・伊勢街道)が荘内を東西に走っており,交通上の要所も当荘内に存在した。
執筆者:小山 靖憲
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報