経済学者。広島県出身。東京帝国大学卒業後、1916年(大正5)同経済学科(のち経済学部)助教授となったが、20年森戸事件で新聞紙法違反の罪に問われ、助教授の職を追われた。21年大原社会問題研究所所員となり、約2年間ドイツに留学、帰国後は同所員として活動しながら、労働者教育にも携わり、いまや大学は「顛落(てんらく)」したと主張して河合(かわい)栄治郎らと論争した。無産運動に対しても発言している。敗戦後には日本社会党に参加して46年(昭和21)衆議院議員に当選し、当選3回、党内右派の理論的指導者となる。47~48年の片山哲(てつ)・芦田均(あしだひとし)両内閣の文部大臣を務め、六三制の実施や教育委員会公選制の制定にあたった。50年広島大学学長となり63年まで在任、55~71年には中央教育審議会委員となり、63年からは同会長として、中間答申「期待される人間像」や戦後教育改革の「再改革」を唱えた最終答申の作成に取り組み、いわゆる中教審路線の推進者となった。
[赤澤史朗]
『森戸辰男著『遍歴八十年』(1976・日本経済新聞社)』▽『森戸辰男著『思想の遍歴』上下(1972、1975・春秋社)』▽『森戸辰男著『クロポトキンの社会思想の研究』(1988・黒色戦線社)』
大正・昭和期の経済学者 広島大学名誉教授・初代学長;元・文相;元・衆院議員(社会党);元・中教審会長。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
1888.12.23~1984.5.28
大正・昭和期の社会政策学者。広島県出身。東大卒。1916年(大正5)東京帝国大学助教授。クロポトキンに関する論文が危険思想とみなされ,20年に休職処分となり,新聞紙法違反で起訴され禁錮3カ月の判決をうけた(森戸事件)。出獄後大原社会問題研究所所員。第2次大戦後,日本社会党に入党,衆議院議員に当選。片山・芦田両内閣の文相。50年(昭和25)広島大学学長。66年中央教育審議会会長として「期待される人間像」を発表。著書「クロポトキン」「平和革命の条件」。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…大原は初代所長高野岩三郎を信頼して,20年にわたって私財を投じつづけた。高野のもとに,櫛田民蔵,大内兵衛,森戸辰男,久留間鮫造,細川嘉六,笠信太郎らが所員となり,研究嘱託の長谷川如是閑ほか多くの研究者が参加し,日本の社会科学研究・社会調査に大きな貢献をした。アナーキズム文献では世界有数の〈エルツバッハ文庫〉や,年鑑編集のため社会運動団体の原資料などを収集したほか,講習会や研究生の育成も行った。…
…東京帝国大学経済学部助教授森戸辰男(1888‐1984)が同学部紀要《経済学研究》の創刊号論文《クロポトキンの社会思想の研究》によって新聞紙法の朝憲紊乱罪違反に問われ,1920年1月に起訴され,禁錮2ヵ月・罰金70円に処せられた筆禍事件。紀要編集発行名義人の助教授大内兵衛も禁錮1ヵ月・罰金20円(執行猶予2年)の刑をうけた。…
※「森戸辰男」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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