日本大百科全書(ニッポニカ) 「楽市・楽座」の意味・わかりやすい解説
楽市・楽座
らくいちらくざ
戦国期、近世初期、旧来の特権的な市場関係・商業組織よりの自由をさし、近世的な都市・商業関係の成立に重要な意味をもつ。この内容は、市場や座への賦課を行わないという意味と、市における営業独占権をもつ店舗や生産・流通の独占権をもつ商工業組織としての座を認めないという意味を含んでいるが、両者は密接に関係していた。したがって楽市・楽座には、市場税などの免除から始まり、座組織の解体まで段階があった。楽市の文献上の初見は、1549年(天文18)近江(おうみ)六角義賢(ろっかくよしかた)が城下町石寺新市(いしでらしんいち)を紙の楽市としたことであり、以後、今川義元(よしもと)が駿河(するが)の富士大宮、織田信長が美濃加納(みのかのう)を楽市とした。また、北条氏や徳川氏もこれを施行している。
楽座は1576年(天正4)柴田(しばた)勝家が越前(えちぜん)において唐人(とうじん)座、軽物(かるもの)座を除き「楽座」を命じたのが早い例である。織田信長は77年安土(あづち)山下町にあて、楽市・楽座を令し、「諸座諸役諸公事悉免許事(くじことごとくめんきょのこと)」としたのであった。これらは楽市・楽座の名称を使ったものであるが、内容からいえば、1560年(永禄3)河内(かわち)守護代安見直政(あみなおまさ)が、寺内町富田林(じないちょうとんだばやし)に諸公事や諸商人座公事を免許したことがわかる。また同じころ、桑名は「十楽の津」とよばれているから、自治都市では座商業などの制約を受けないものがあったことを示している。
楽市・楽座は、城下町などの建設や繁栄のために発令したものと、寺内町などの自治都市に安堵(あんど)したものに分かれるが、戦国大名や織田政権の政策では、城下町などの都市にとどまっており、領国内では座が活動していることが多かった。とくに京、奈良では織田政権は座特権を安堵するのが一般であったから、旧商業組織が依然残っていた。豊臣(とよとみ)秀吉は初め織田政権の政策を継承したが、1585年(天正13)9月、公家(くげ)、寺社あるいは問屋などの得分(とくぶん)権を否定した。これは、旧来の座組織支配を改めて、統一権力の手に掌握しようとするものであったが、以後、秀吉は座組織の改組や解体を進め、1591年京において「屋地子(やちし)人夫以下諸公事商買ノ座悉免除」(多聞院(たもんいん)日記)を令したように、徐々に実施した。
豊臣政権により旧来の商業組織は廃されたが、それが都市・商業への賦課免除や商業の自由をもたらしたとはいえない。過書船などの流通仲間や金銀座などの組織、また建築職人などの商工業組織がつくられ、領主支配に必要な統制が行われた。結局、中世の狭隘(きょうあい)な市場関係は改変されたが、一方では特権的であったにせよ自立的商工業団体が解散させられたことになり、都市自治の解体と並んで、商工業者の自立性を失わせた。
[脇田 修]
『豊田武著『中世日本商業史の研究』(1952・岩波書店)』▽『脇田修著『近世封建制成立史論』(1977・東京大学出版会)』▽『佐々木銀弥著『楽市楽座令と座の保障安堵』(『戦国期の権力と社会』所収・1976・東京大学出版会)』