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権田直助 ごんだなおすけ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

権田直助
ごんだなおすけ

[生]文化6(1809).1.13. 武蔵
[没]1887.6.8.
明治初期の神道家,国学者。武蔵国入間郡の医師権田嘉七郎直教の子。号は名越舎。 19歳のとき江戸に出て江戸幕府の侍医野間広春院に学び,安積艮斎儒学を学ぶ。天保3 (1832) 年 23歳で平田篤胤の門に入り,京都に上り,平田派の棟梁となって国事に奔走した。明治2 (69) 年神祇伯白川家の学館の教授となり,まもなく大学校の古医道科に御用掛となる。2年後国事犯の嫌疑を受け金沢に幽閉されたが,のち許されて相模阿夫利神社の祠官から権大教正に進み,そののちも要職を与えられて神道界,国学界に重んじられた。著書『古医道沿革考』『神道大意』『みたまのふゆ』『心の柱』『教典十二章』『祭典習礼小言』『老後集』など。

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デジタル大辞泉の解説

ごんだ‐なおすけ〔‐なほすけ〕【権田直助】

[1809~1887]幕末・明治初期の国学者・医者。武蔵の人。号、名越舎(なごしのや)。平田篤胤(ひらたあつたね)に国学を学んだ。尊攘(そんじょう)運動に参加、維新後、神官・皇典講究所教授などを歴任。著「みたまのふゆ」など。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

権田直助 ごんだ-なおすけ

1809-1887 江戸後期-明治時代の国学者,医師。
文化6年1月13日生まれ。安積艮斎(あさか-ごんさい),平田篤胤(あつたね)らにまなぶ。尊王攘夷(じょうい)を支持し,西郷隆盛らと行動した。古医方を唱え,維新後は大学中博士,皇漢医道御用掛などをつとめる。明治6年相模(さがみ)(神奈川県)大山阿夫利(あふり)神社宮司となった。明治20年6月8日死去。79歳。武蔵(むさし)入間郡(埼玉県)出身。名は玄常。号は名越廼舎(なごしのや)。

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朝日日本歴史人物事典の解説

権田直助

没年:明治20.6.8(1887)
生年:文化6.1.13(1809.2.26)
幕末明治期の国学者,神道家,医者。幼名玄常。名越廼舎と号す。武蔵国入間郡(埼玉県)毛呂本郷に生まれる。権田家は祖父休玄,父直教(嘉七郎)とも村医師であった。19歳のとき江戸に出て幕府の医官野間広春院について漢方医学を,安積艮斎に儒学を学び,天保1(1830)年22歳で郷里に帰って医を開業した。天保8年29歳のとき再度江戸に出て平田篤胤に入門して国学を学び,国学思想に基づく「皇朝医学」を唱えた。当時の医学が漢洋医学に主導権を奪われている状況に対して,わが国本来の医道を打ち立てようとするもので,断片しか伝えられていないわが国の古い医方に体系を与え一個の医道にまで高めようとするものであったが,必ずしも漢洋医学を否定するものではなかった。このためその医学研究は『大同類聚方』『神遺方』などわが国古代から伝わる医書の研究に向かった。 文久2(1862)年京都に上って平田派の尊攘運動に加わり公卿の間に活躍,その後も江戸京都の間を時事に奔走した。維新後,監察司知事,大学中博士,医道御用掛となったが国漢洋の対立から職を追われた。明治6(1873)年7月から相模国大山阿夫利神社祠宮,大講義に任ぜられ,同12年には権大教正となり,この年から14年まで伊豆三島神社の宮司を兼任した。以後は同15年皇典講究所教授,16年大教正,17年神道事務局顧問,神道本局編輯掛などを歴任し明治前期の神道・国学界に活躍した。<参考文献>神崎四郎『惟神道の躬行者権田直助翁』,同『権田直助集』(『国学体系』20巻)

(平野満)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

世界大百科事典 第2版の解説

ごんだなおすけ【権田直助】

1809‐87(文化6‐明治20)
幕末・明治の国学者,医家。武蔵国入間郡の出身。号は名越廼舎。家は祖父以来医を業とする。平田篤胤に学び,国学および皇漢医道を修める。幕末国事多端に際し,東西二京間に奔走して勤王運動にも荷担。維新後は刑法官監察司知事,大学中博士,皇漢医道御用掛,大山阿夫利神社祠官,神道本局顧問などを歴任。晩年は籍を大山に移し,ここを終焉の地と定める。著書に《古医道沿革考》《詞の玉緒頭注》ほか多数。【南 啓治】

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大辞林 第三版の解説

ごんだなおすけ【権田直助】

1809~1887) 幕末・明治初期の国学者・神道家・医者。号は名越舎なごしのや。武蔵の人。平田篤胤に学び、尊皇討幕に奔走。維新後、神官となる。著「みたまのふゆ」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

権田直助
ごんだなおすけ
(1809―1887)

幕末・明治初期の国学者、医者。名越廼舍(なごしのや)と号する。武蔵(むさし)国入間(いるま)郡毛呂(もろ)本郷(埼玉県入間郡毛呂山(もろやま)町)の医家に生まれ、医学を修めて開業。のちに平田篤胤(ひらたあつたね)に入門して、神道(しんとう)、国学を研究した。1862年(文久2)に上京して尊攘(そんじょう)運動に参加。維新後は新政府の大学中博士、皇漢医道御用掛などに任じられたが、1871年(明治4)国事犯の嫌疑を受け、免官のうえ1年余り幽閉される。赦免後、相州(神奈川県)阿夫利(あふり)神社の宮司、皇典講究所教授、神道事務局顧問を歴任し、明治20年6月8日没。著書は『みたまのふゆ』『心の柱』など多数ある。その神道説は篤胤の学を継承するもので、とくに造化三神の神徳を強調する。[大原康男]

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世界大百科事典内の権田直助の言及

【神道大意】より

… なお書名の〈神道大意〉とは神道の大体の意味を簡単に述べた書との意味であることから,他にも同名の書が多い。すなわち吉田神道内でも兼夏,兼敦以下の同名書があり,垂加神道に属する玉木正英,若林強斎のそれ,復古神道派の富士谷御杖権田直助(ごんだなおすけ)らのそれ,儒家神道の熊沢蕃山のそれ,雲伝神道の天如のそれと多くあり,またそれらの注釈書も多く出されている。吉田兼俱ほか吉田神道者のそれは,吉田叢書第1編に所収(1940年吉田神社編)。…

※「権田直助」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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