横根村(読み)よこねむら

日本歴史地名大系 「横根村」の解説

横根村
よこねむら

[現在地名]甲府市横根町・酒折さかおり二丁目・酒折町

坂折さかおり村の東にあり、十郎じゆうろう川が南を西流する。南境は甲州道中に沿う。天正一一年(一五八三)三月二八日の徳川家康印判状写(諸家文書纂)に「横根」とみえ、同所内真如寺分一八貫文が村松采女に本領として安堵されている。文禄元年(一五九二)一月二〇日には横根郷八幡領として二俵の地が寄進された(「木下真方証文写」甲州古文書)。慶長古高帳では高七二五石余、ほかに八幡領三石。慶長六年(一六〇一)検地帳(県立図書館蔵)では田二八町一反余、うち麦田二反余、畑八町三反余、ほかに永荒地五町八反余、屋敷九千四三〇坪。貞享元年(一六八四)の検地帳(同館蔵)では高七四〇石余、反別は田二八町六反余で、うち麦田一町余、畑一二町七反余、新検出の山畑三反余、屋敷三町四反余。

横根村
よこねむら

[現在地名]飯岡町横根

平松ひらまつ村の西方にあり、南は海に面する。中世には横根郷などとみえる。天正一八年(一五九〇)木曾義昌領になったとみられ、慶長一八年(一六一三)の木曾氏旧領書上(岩井家文書)では横根村六六〇石余とある。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高二六四石で幕府領のほかは旗本久貝領。文政一一年(一八二八)の組合村書上帳写(伊藤家文書)では家数一一七・人数四八五。天保一四年(一八四三)の商人書上帳(村明細帳の研究)では高一六四石余のうち浦浜高一三石、旗本久貝領のほかは勝田氏当分預所、農業のみを生業とする者は家数五一、漁業渡世は同二五、商い渡世は同一三、内訳は酒造・枡売酒・荒物・髪結各二のほか質屋・船具・造醤油屋・搗米・湯屋。

横根村
よこねむら

[現在地名]佐久市横根

平尾ひらお(一一五五・五メートル、平尾富士ともいう)の西斜面、川の渓谷に至る狭小の土地で、北は面替おもがい(現北佐久郡御代田町)、南西は上平尾かみひらお岩村田いわむらだの村々に接する。

天正六年(一五七八)の上諏訪大宮同前宮造宮帳(諏訪大社上社蔵)に「瑞垣三間 長倉之内横根発地沓懸 合弐貫五百文」とあるのが初見。村域には横穴式石室を有する多数の古墳があり、「四十八墳塚」と称したという(長野県町村誌)

横根村
よこねむら

[現在地名]身延町横根中よこねなか

南流する富士川の西岸、横根沢以北の富士川に注ぐ小渓流が谷を刻んだ起伏に富む丘陵地に位置する。「甲斐国志」に横根村となか村は「里正ヲ兼帯シ、横根中村ト称シテ一村ノ如ク、境界相交ハレリ」と記される。寛延四年(一七五一)の横根中村明細帳(佐野英樹家文書)によると、両村の東は光子沢みつござわ村、北から西は相又あいまた村、南は中野なかの(現南部町)、村内を走る駿州往還は三五町ほど。慶長古高帳に「よこね」とみえ、高一三石余。

横根村
よこねむら

[現在地名]世田谷区砧公園きぬたこうえん大蔵おおくら一丁目・きぬた一丁目・同四丁目・同六丁目・祖師谷そしがや一丁目・千歳台ちとせだい一丁目

大蔵村の東にあり、多摩郡に属する。東は荏原えばら瀬田せた村。本村部分から弓状の細長い区域が大蔵村内に飛出ている。大蔵村の飛地を越えて北東方向に位置する世田谷村の区域には横根山谷よこねさんやという字名がついており、古くはこの辺りまで横根村だった可能性もある(風土記稿)

横根村
よこねむら

[現在地名]岩槻市横根

浮谷うきや村の西、綾瀬川左岸沿いの沖積平野に立地し、寛永年間(一六二四―四四)に五郎兵衛なるものが開発したという(風土記稿)。開発以来岩槻藩領であったが、宝暦六年(一七五六)以後は幕府領。北の谷下やした村との境近くに綾瀬川の妙見みようけん河岸があった。田園簿に村名がみえ、高は田方二七七石余・畑方一一〇石余。延宝八年(一六八〇)の岩付領内村名石高家数人数寄帳(吉田家文書)によると家数三九(本百姓三四・水呑五)、人数二二五。

横根村
よこねむら

[現在地名]大府市横根町

三河と界する境川の西にあり、南は大符おおぶ村、北は北尾きたお村に接する。西は山地で、境川と東浦ひがしうら街道との間に田面がある。字惣作そうさくの惣作遺跡からは弥生式土器・土師器須恵器・灰釉陶器・角形土器が出土した。

「尾陽雑記」には、本多右馬亮助定が足利尊氏より横根郷などを与えられたとある。延命えんめい寺蔵の大般若経第一巻の裏書に「文安二年正月二十日知多郡横根郷於藤井大明神(下略)」とあり、横根郷と称していた。「寛文覚書」によれば、概高九三一石余で、田方五三町四反七畝余・畑方一六町九畝余、家八一・人数五七九。大通行や上洛・朝鮮人来朝・茶壺道中には人馬役を負担するとある。

横根村
よこねむら

[現在地名]鋸南町横根

市井原いちいばら村の東に位置する山間村。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録に村名がみえ、高四七石八斗、うち田方二一石余。里見氏直轄領。同一五年の里見家分限帳では給人領。正保郷帳では田高二一石余・畑高二七石余、佐倉藩領。万治二年(一六五九)の佐倉藩勝山領取箇帳(吉野家文書)によると、高五一石余のうち永荒三石余があり残高四八石余。内訳は田方二三石余(免四ツ九分)・畑方一七石余(免三ツ二分)・新山畑四石余(免二ツ二分)・山役二石余。元文村高帳では高五三石余、幕府領。

横根村
よこねむら

[現在地名]武生市横根町

丹生山地東麓の谷あいにある。慶長三年(一五九八)九月の越前府中郡在々高目録に村名がみえ、高四〇六・八九四石、先高二八二石余・出分一二四石余。正保郷帳によると、田方三八四石余・畠方二二石余。貞享三年(一六八六)福井藩領から幕府領となり、元禄一〇年(一六九七)高森藩領、享保五年(一七二〇)鯖江藩領となる。

横根村
よこねむら

[現在地名]入広瀬村横根

東は田小屋たごや村、西は五輪ごりん峠を越えて高倉たかくら(現守門村)に通じる。南に道地どうちの集落がある。正保国絵図に村名がみえる。天和三年郷帳では高六八石一斗余、ほかに同所新田高一一石五斗余。宝暦五年(一七五五)の村明細帳(小千谷市立図書館蔵)では田六町四反余・畑三町九反余。

横根村
よこねむら

[現在地名]下妻市横根

小貝こかい川右岸に位置し、北は平川戸ひらかわど村。室町中期以降は多賀谷氏が支配し、慶長七年(一六〇二)に天領となり、のち旗本領と藩領となる。元禄郷帳の村高は四八三石余、幕末は山城淀藩領分一六〇石余、旗本須田・三宅・井出・新庄各氏領各八〇石余、薬王院除地七斗余(各村旧高簿)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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