デジタル大辞泉
「橋本明治」の意味・読み・例文・類語
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はしもと‐めいじ【橋本明治】
- 日本画家。島根県出身。東京美術学校卒。松岡映丘に師事する。昭和四二年(一九六七)に、法隆寺金堂壁画再現模写の主任を務める。文化勲章受章。代表作「まり千代像」。明治三七~平成三年(一九〇四‐九一)
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橋本 明治
ハシモト メイジ
昭和期の日本画家
- 生年
- 明治37(1904)年8月5日
- 没年
- 平成3(1991)年3月25日
- 出生地
- 島根県那賀郡浜田町(現・浜田市)
- 学歴〔年〕
- 東京美術学校(現・東京芸術大学)日本画科〔昭和6年〕卒
- 主な受賞名〔年〕
- 日展特選〔昭和12年・13年〕,芸術選奨文部大臣賞〔昭和26年〕「赤い椅子」,日本芸術院賞〔昭和29年〕「まり千代像」,文化勲章〔昭和49年〕,浜田市名誉市民〔昭和49年〕
- 経歴
- 松岡映丘に師事し、在学中から帝展入選を重ね、昭和12年第1回新文展に「浄心」が、13年第2回新文展に「夕和雲」が特選。15〜25年法隆寺金堂壁画の摸写主任として摸写に従事。23年創造美術協会結成に参加、25年脱退、官展(日展)に復帰。43年には皇居新宮展正殿「朝陽桜」を制作。太く黒い輪廓線を特徴とし、「酔」などの美人風俗画と「ガラシア夫人」「六世歌右衛門」「関取」「女優司葉子」などの肖像画を多く残した。29年「まり千代像」で日本芸術院賞を受賞し、46年日本芸術院会員、47年日展常務理事、49年文化勲章を受章。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
橋本明治
はしもとめいじ
(1904―1991)
日本画家。島根県浜田生まれ。東京美術学校で松岡映丘(えいきゅう)に学び、1931年(昭和6)に同校を卒業して研究科に進む。29年の第10回帝展に『花野』で初入選し、37年と翌年の第1、第2回新文展で特選。40年から50年(昭和25)まで法隆寺壁画模写に参加する。52年に前年日展出品作『赤い椅子(いす)』で芸能選奨文部大臣賞を受け、同年日展審査員となる。67年から翌年にかけて、焼失した法隆寺金堂壁画再現模写に主任として参加。69年に日展理事、71年には芸術院会員となり、74年に文化勲章を受章した。代表作『まり千代像』『六世歌右衛門(うたえもん)』など。
[二階堂充]
『河北倫明他解説『橋本明治作品集』(1975・朝日新聞社)』▽『村木明解説『現代日本美術全集10 橋本明治』(1982・集英社)』
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橋本明治
はしもとめいじ
[生]1904.8.5. 浜田
[没]1991.3.25. 東京
日本画家。 1931年東京美術学校日本画科を卒業,松岡映丘に師事。 29年在学中に帝展に初入選し,また 37年第1回新文展で『浄心』,38年第2回新文展で『夕和雲』が特選となるなど,早くから認められた。 40~50年には法隆寺壁画模写に従事。第2次世界大戦後,一時創造美術に参加したが,50年再び日展に復帰し,明快で単純な色彩,形態による風俗画を発表した。 71年日本芸術院会員,74年文化勲章を受章。主要作品『まり千代像』 (1954,東京国立近代美術館) ,『石橋』 (61,同) 。
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橋本明治【はしもとめいじ】
日本画家。島根県生れ。東京美術学校卒。松岡映丘に師事。1929年帝展入選。1940年法隆寺金堂壁画模写主任となる。1948年創造美術結成に参加,1950年退会。日展で活躍した。1974年文化勲章。代表作《浄心》《赤い椅子》。島根県立博物館に橋本明治記念室がある。
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橋本明治 はしもと-めいじ
1904-1991 昭和時代の日本画家。
明治37年8月5日生まれ。松岡映丘(えいきゅう)に師事。昭和15年から法隆寺金堂壁画の模写,42年から焼失した同壁画の再現模写に従事。日展などで活躍。作品に「まり千代像」「六世歌右衛門」などがある。30年芸術院賞。46年芸術院会員。49年文化勲章。平成3年3月25日死去。86歳。島根県出身。東京美術学校(現東京芸大)卒。作品はほかに皇居新宮殿の障壁画「桜」など。
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橋本 明治 (はしもと めいじ)
生年月日:1904年8月5日
昭和時代の日本画家。日展常務理事
1991年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報