マルクス経済学者。明治18年11月16日福島県生まれ。東京外国語学校卒業後、京都帝国大学で河上肇(はじめ)に経済学を学び、さらに東京帝国大学大学院で研究を続け高野岩三郎に師事した。『大阪朝日新聞』論説記者、同志社大学教授を経て、1919年(大正8)新設の東京帝国大学経済学部の講師となったが、翌20年「森戸事件」に際会して辞職、恩師高野が創立(1919)した大原社会問題研究所に入り、まもなくドイツに留学、22年帰国。以後急逝するまで同研究所にあってマルクス経済学の研究に没頭し、恩師河上の唯物史観理解の批判や、高田保馬(やすま)、小泉信三などのマルクス価値論批判への反批判を通じて、日本のマルクス経済学研究の水準を向上させた。30年代に入ってからはマルクスの地代論の研究を進め、ついで日本の小作料は前資本主義地代であると論じて講座派の見解と対立した。昭和9年11月5日没。著作は、彼の没後、高野岩三郎、大内兵衛(おおうちひょうえ)らによって編集された『櫛田民蔵全集』全5巻(1935、再刊1947・改造社)にほとんど収録されている。
[山崎春成]
『河上肇著『河上肇より櫛田民蔵への手紙』(1974・法政大学出版局)』
マルクス経済学者。福島県出身。東京外国語学校卒業後,京都帝大法科に進学,河上肇に師事,経済学を学ぶ。1912年卒業後,東京帝大大学院に入学,13年同大法科経済統計研究室助手,15年大学院修了とともに助手を辞任。17年以降《大阪朝日新聞》論説記者,同志社大教授,東京帝大経済学部講師を経て,20年大原社会問題研究所へ入所。研究所派遣の2年間のドイツ留学ののち,22年に帰国。爾来,49歳で急死するまで,在野の研究者としてマルクス経済学の研究に没頭した。櫛田の関心は当初唯物史観にあったが,やがてマルクスの経済理論とりわけ労働価値説をめぐる諸問題に論究の重点を移し,師の河上をはじめ多くのマルクス学者と論争を重ねながら地代論から日本の農業問題をとらえようとする独自の見解を展開した。当時主流だった講座派マルクス主義者に対する労農派マルクス経済学者の代表的存在として,戦前のマルクス経済理論の研究水準を高め,戦後の隆盛を準備した功績は大きい。《櫛田民蔵全集》5巻(1935)がある。
執筆者:桜井 毅
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大正・昭和期の経済学者
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1885.11.16~1934.11.5
大正・昭和前期の経済学者。福島県出身。京大卒。大阪朝日新聞論説記者,同志社大学教授をへて1919年(大正8)東京帝国大学講師となるが,20年の森戸事件を機に辞職して大原社会問題研究所研究員となる。22年にドイツ留学から帰国し,マルクス経済学の研究に没頭して論考を数多く発表。晩年は日本資本主義論争の論客として,小作料を前資本主義地代と規定し講座派と対立した。「櫛田民蔵全集」全5巻。
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…大原は初代所長高野岩三郎を信頼して,20年にわたって私財を投じつづけた。高野のもとに,櫛田民蔵,大内兵衛,森戸辰男,久留間鮫造,細川嘉六,笠信太郎らが所員となり,研究嘱託の長谷川如是閑ほか多くの研究者が参加し,日本の社会科学研究・社会調査に大きな貢献をした。アナーキズム文献では世界有数の〈エルツバッハ文庫〉や,年鑑編集のため社会運動団体の原資料などを収集したほか,講習会や研究生の育成も行った。…
…B.ラッセル,サンガー夫人,アインシュタインなどの外国知識人を招いたり,プロレタリア文学流行期にはそれに多くの誌面を割くなど,つねに時代の新思潮を敏感にとらえ大正末年には《中央公論》とならぶまでに成長した。本誌の最多執筆者だった山川均のほか河上肇,猪俣津南雄,櫛田民蔵ら多くのマルクス主義者に誌面を開放し,社会主義運動とマルクス主義の普及に多大の貢献をした。いっぽう,文芸欄は文壇の登竜門としての権威をもち,志賀直哉《暗夜行路》,中条(宮本)百合子《伸子》,芥川竜之介《河童》などの名作も生まれた。…
…ヒルファディングはエンゲルスの歴史・論理説(論理的なものは歴史的なものから偶然的なものを捨象したものであるという解釈)に依拠して,価値は単純商品(資本主義以前の商品)に妥当する概念であり,生産価格は資本制的商品に妥当する概念であって,両者は質的に異なると反論した。この論争は戦間期の日本でも小泉信三と櫛田民蔵の間で再現され,櫛田は〈価値と生産価格の矛盾は事実の矛盾であって論理の矛盾ではない〉として小泉を反論したが,この反論は歴史・論理説そのものに難点があるために有効であったとはいえない。転化問題の正しい解決の方向に向かって新しい軌道を設定したのは,L.vonボルトキエビチである(1906‐07)。…
…完結1935)。30年代になると,ロシア・マルクス主義の解釈体系が日本のマルクス主義者のあいだでも主流を占めるようになったが,それでも野呂栄太郎の日本資本主義論をはじめ,歴史的研究の分野でマルクスの理論を創造的に適用する一連の業績が現れたし,河上肇や櫛田民蔵らをはじめとするマルクス経済学や社会理論,歴史理論の独創的解釈が試みられ,戸坂潤に指導された〈唯物論研究会〉のマルクス主義哲学の分野での意欲的な展開も行われた。しかし,日本におけるマルクス主義は,日本軍国主義体制の徹底的な弾圧により,社会運動の方面はもとより理論活動の方面でも第2次世界大戦の終戦(1945)まで雌伏を余儀なくされた。…
…これがいわゆる〈二段階革命論〉であったが,それが日本共産党のいわゆる〈32年テーゼ〉とぴったりと一致することは,周知のことがらであった。 これに対して,雑誌《労農》に結集した山川均,猪俣津南雄,向坂逸郎(1897‐1985),大内兵衛,櫛田民蔵,土屋喬雄(1896‐1988)らの学者は,総じて労農派と呼ばれたが,彼らはほぼ次のように主張した。明治維新は一種のブルジョア革命であり,したがってそれ以後,日本社会の構造は土地所有よりも資本の運動によって規制されるようになった。…
※「櫛田民蔵」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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