正泉寺(読み)しようせんじ

日本歴史地名大系 「正泉寺」の解説

正泉寺
しようせんじ

[現在地名]津島市薬師町

延享五年(一七四八)の村絵図には天王てんのう川の祭河戸まつりこうどの東堤の下にある。津梁山と号し、曹洞宗本尊は盧遮那仏坐像。

承和元年(八三四)空海の開闢とし、若林山円景えんけい寺と号する真言宗寺院であったが、応永一四年(一四〇七)総持そうじ(現横浜市)二世峨山韶碩の法嗣大徹宗令が那須野なすの(現栃木県那須郡那須町)殺生石済度の旅中、鳴海なるみ(現名古屋市)留錫、竜蟠山瑞泉ずいせん寺を建立。この時雪公法印(月桂)が那須氏出自で霊神の祟りがあったため、大徹に霊神の済度を乞うて、以後改宗。


正泉寺
しようせんじ

[現在地名]東城町千鳥

古社こそ(姑蘇)山の南麓、下千鳥の上谷しもちどりのかみだににある。姑蘇山と号し、曹洞宗。本尊は観音菩薩。もと菅の徳雲すげのとくうん寺末であった。

明応元年(一四九二)徳雲寺三世竹翁の開創という。のち二度の火災で寺記を失った。「比婆郡誌」は、開創の際用水が不足したので、竹翁が錫杖岩山に穴をあけ正泉正泉と唱えたところ、甘泉が湧出したことから、寺名としたという口碑を伝える。初め姑蘇こそ山頂上のてらなるの地に開創されたが、万治寛文(一六五八―七三)の頃現在地に移ったという。


正泉寺
しようせんじ

[現在地名]我孫子市湖北台九丁目

大竜山と号し、曹洞宗。本尊は延命地蔵で、天正五年(一五七七)の墨書銘が記される。新四国相馬八十八所観音霊場札所。弘長三年(一二六三)創建と伝え、もと法性ほつしよう寺と称した。「利根川図志」によれば、北条時頼の娘法性尼が手賀てが沼の毒蛇になって住職の夢に現れ、血盆経一千巻の読誦による救済を求めたという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

事典・日本の観光資源 「正泉寺」の解説

正泉寺

(大阪府大阪市東淀川区)
私が選んだ東淀川100選指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

世界大百科事典(旧版)内の正泉寺の言及

【血盆経】より

…この地獄からの救済のために川施餓鬼(かわせがき)による死者供養や,往生祈願のための特殊な儀礼がつくりあげられ,ひいては,この経を保持することによって不浄が除けられるとされたり,安産祈願のための護符としても用いられたのである。現在,この信仰を見ることはほとんどできないが,唯一,千葉県我孫子(あびこ)市の正泉寺はその姿を今にとどめている。【武見 李子】。…

※「正泉寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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