改訂新版 世界大百科事典 「殉葬」の意味・わかりやすい解説
殉葬 (じゅんそう)
王侯貴族など主人の墓に,死者の供として妃妾や従者を同時に葬ること,およびその遺構をいう。墓の大小にかかわらず殉葬を伴うのは支配階級の墓であり,権力の大小は別にして,それらを王墓,首長墓などと呼んでいる。それぞれの社会と同じような来世の存在を信じていた時代の風習で(来世観),古文献によると,生きながら埋められた場合もあった。人間に限らず犬や馬を葬ったものも殉葬というが,犠牲として区別すべきものもある。例えば殷代の武官村殷墓のように,墓壙の埋土中にあった頭骨だけの34個や,墓の南60~70mあたりにある大量の頭のない俯身葬人骨などがそれである。また殷墟の小屯C区で斬首墓とともに発見された小児墓,武装墓,全身墓などは宗廟の建設に伴うものだから,供犠と考えて犠牲と見る方が妥当であろう。
エジプトでは第1王朝時代のアビドスにある王墓とマスタバから殉葬が見られる。ジェル王大墓には338基,ジェト王大墓には174基の殉葬墓が付属し,ジェト王のサッカラにあるマスタバでは,周りを62基の殉葬墓がとりまいている。第3王朝初代のジェセル王の〈階段式ピラミッド〉では,王の石棺を安置した中央の大きな竪坑のほかに11の小竪坑があり,ここで殉葬者がアラバスター(雪花石)製の石棺に葬られていた。第4王朝のクフ王を葬る最大のピラミッドは,東に王妃を葬った小ピラミッドが3基並び,高官を葬った多数のマスタバが南と西に配列されているが,彼らの死が殉死であるか否かを決めることはむずかしい。メソポタミアではウルの王墓の殉葬が有名で,墓室内が荒らされていた789号墓では墓壙内から武装兵士6,男24,女33,合計63体が出土した。埋葬法の違う1054号墓では,墓室内で4人の従者を従え,墓壙を埋める過程で殉葬と供物を交える埋土が層をなして繰り返されており,なかには頭骨だけの犠牲も認められた。ウル第3王朝の帝王陵でも墓室が地下に二つあり,人骨が双方から出土したので,一方が殉葬者のものと推測される。スキタイの王墓にも殉葬を伴うものがあり,ヘロドトスの《歴史》に記された〈王族スキタイ〉における王の葬式と符号する。ただし王に近く仕えた50人の青年と50頭の馬の絞殺が,埋葬1年後の儀式として行われるとすると,初めの定義は再考を要する。
中国では上述の殷墓のように,殉葬は殷代に顕著であり,西周にも認められ,《史記》によると秦の武公が死んだとき66人が従死したと伝え,始皇帝のときには多数の宮人を殺し,墓を造った工人を墓中に生埋めにしたといわれる。さらに従死ないし殉死は隋・唐から明・清にまで及ぶという。日本では《魏志倭人伝》に卑弥呼が死んだとき奴婢百余人を殉葬したと伝え,《日本書紀》垂仁紀には近習者を生埋めにした話が記され,〈孝徳紀〉のいわゆる大化薄葬令では,人と馬の殉死や殉葬を禁止している(薄葬)。しかし,最近長野県で殉葬した馬と推測される墓が発見されただけで,人の殉葬は遺跡の上ではまだ確認されていない。また〈垂仁紀〉や《古事記》崇神天皇条に見られる,埴輪の起源を殉葬にかえたものとする伝承は,埴輪の中でも人物埴輪の出現がもっとも遅く否定的に考えられている。エジプトのウシャブティや中国の俑(よう)などが,殉葬者に代わるものとして発明されたものか,別の理由によるかはまだほとんど議論されていない。
→殉死
執筆者:小野山 節
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報