母性保護論争(読み)ぼせいほごろんそう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「母性保護論争」の意味・わかりやすい解説

母性保護論争
ぼせいほごろんそう

1918年(大正7)3月から19年6月まで、1年5か月にわたって行われた母性保護をめぐる論争。『婦人公論』『太陽』などの誌上に発表され、論争参加者は与謝野晶子(よさのあきこ)、平塚らいてう、山川菊栄(きくえ)、山田わか等である。

 論争の発端は、与謝野晶子が1918年3月号の『婦人公論』に寄せた「紫影録」に、「女性は徹底して独立すべし」とのエッセイに始まる。「欧米の婦人運動に由(よ)って唱えられる、妊娠分娩(ぶんべん)などの時期にある婦人が、国家に向かって経済上の特殊な保護を要求しようという主張に賛成しかねる。男も女も自分たちの生活とわが子の保育もできる経済力をもって、はじめて結婚すべきであり、男子の財力をあてにして結婚し分娩する女子は奴隷である」ときめつけ、依頼主義は女性自ら差別を招くものとして反対した。職業をもち、経済的に独立することこそ、女性が解放される基礎条件だと主張する。これに対して、平塚らいてうは、エレン・ケイスウェーデン)の母性主義に基づき女性論を展開する。「母性保護の主張は依頼主義か」と『婦人公論』1918年5月号に寄稿し、「母は生命の源泉であって、婦人が母たることによって個人的存在の域を脱して社会的な、国家的な存在者となるのであるから、母を保護することは婦人一個の幸福のために必要なばかりでなく、その子供を通じて、全社会、全人類の将来のために必要」であると反論した。母の経済的独立は、特殊な労働能力のある者のほかは不可能であり、母性の保護は差別ではなく、むしろ差別からの解放であり、女性が人間として受けるべき当然の権利という視点であった。かくして爆発的に論争が展開されたが、すこし遅れてこの論争に参加した山川菊栄は、2人の論争を整理して、社会主義的視点を明確に打ち出している。菊栄の主張は、女性の経済的独立と母性保護の必要をともに認め、子供を育てながら働く母親の保障は、母性を破壊し子供を不幸にする資本主義そのものの変革なしには達しえられないものとしている。

 この論争は、現在もなお問題となっている論点を含んでおり、晶子の徹底した経済的独立の必要性は、女性問題基点であり、今日でも確認されるべき重要なポイントであろう。また、らいてうの母性は国家によって守られるべきものという主張は、家庭と職業の両立の困難さという今日の問題を指摘している。

[吉見周子]

『丸岡秀子著『婦人思想形成史ノート 上』(1975・ドメス出版)』『一番ヶ瀬康子編『入門女性解放論』(1975・亜紀書房)』『香内信子編『資料母性保護論争』(1984・ドメス出版)』

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百科事典マイペディア 「母性保護論争」の意味・わかりやすい解説

母性保護論争【ぼせいほごろんそう】

1918年を中心とする,エレン・ケイが主張した〈母性保護〉をめぐる,与謝野晶子平塚らいてう,山川菊栄,山田わかによる論争のこと。与謝野晶子はケイの〈母性偏重〉を批判して,女性は〈母性〉の実現だけで生きるものではないし,経済的・精神的自立を果たしていない女性には,そもそも子どもを産む資格がないと主張した。平塚らいてうはこれに反論して,母になることは女性が社会的存在になるためにぜひとも必要なことであると論じてケイを擁護,母親に対する国家の福祉政策を求めた。山川菊栄,山田わかも与謝野を批判。主張はやがて,母になることこそ女性の天職,母性こそは国家の礎という思想に近づいていった。この論争は,女性解放において母性がどのように問題とされるかを日本で最初に示した点で,今日も歴史的意義をもつ。しかしその後女性学が現れるまでこの問題はそれ以上深く問われることはなかった。〈母性〉という言葉は,ケイのスウェーデン語moderskanの訳語だが,母親は子どもに対して何か〈本能的〉な愛情を持っているものだという考え方に基づくものである。この考え方は庶民の観音信仰における慈悲のイメージなどとも結びついて,1910年代から1920年代の家庭教育書の隆盛とともに,一般に広まり定着していった。
→関連項目フェミニズム山川菊栄

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「母性保護論争」の意味・わかりやすい解説

母性保護論争
ぼせいほごろんそう

1918~19年に繰り広げられた,母性保護をめぐる論争。歌人の与謝野晶子が雑誌『太陽』に書いた「母性偏重を排す」という一文,雑誌『婦人公論』に書いたエッセー「女子の徹底した独立」に始まるとされる。与謝野は女性の経済的自立を掲げ,国家による母性の保護を依頼主義として批判した。これに対して,婦人運動家の平塚らいてうは,スウェーデンの思想家エレン・ケイに傾倒し,母は社会的な使命をもち,妊娠・出産・育児期にある女性は国家によって保護・尊重されるべきと提唱して激しく対立した。婦人運動家の山川菊栄は,与謝野の主張を女権主義,平塚の主張を母性主義(母性中心主義,母権主義)として整理し,いずれも資本主義社会を前提とした議論であるとして批判,女性にとっては自立も保護も必要であると主張した。この時期における立場の相違はかたちを変えながらも,のちのフェミニズム運動に大きな影響を与えた。

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世界大百科事典(旧版)内の母性保護論争の言及

【平塚らいてう】より

…14年画家奥村博史と同棲し,愛の共同生活をうたい,家族制度に従って夫の家に入籍することを拒んだ。大正時代は婦人問題評論家として活躍,18年与謝野晶子と母性保護論争を行い,20年には市川房枝らと新婦人協会を結成,婦人参政権運動を展開した。昭和に入りアナーキズムに接近し,29年消費組合〈我等の家〉を設立,30年高群逸枝らの無産婦人芸術連盟に参加した。…

【山川菊栄】より

…1916年山川均と結婚。18年の母性保護論争で社会主義の立場に立つ婦人論を展開して論壇に登場。以後,ベーベル(《婦人論》を初完訳),カーペンターらの著作を翻訳紹介する一方,《婦人の勝利》(1919),《婦人問題と婦人運動》(1925)などの著作で,科学的社会主義に基づく婦人論,婦人運動理論を樹立した。…

※「母性保護論争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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