雲谷等顔(読み)ウンコクトウガン

デジタル大辞泉 「雲谷等顔」の意味・読み・例文・類語

うんこく‐とうがん【雲谷等顔】

[1547~1618]桃山時代画家肥前の人。雲谷派始祖。初め絵師として毛利氏仕え、のち雪舟ゆかりの雲谷庵を継ぎ、雪舟の画風復興のために活躍。山水・人物を得意とした。作品では、京都大徳寺黄梅院の方丈襖絵ふすまえが有名。

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精選版 日本国語大辞典 「雲谷等顔」の意味・読み・例文・類語

うんこく‐とうがん【雲谷等顔】

  1. 桃山時代の画家。雲谷派の祖。肥前の人。毛利家に仕え、雪舟の旧跡雲谷庵を継ぎ、雪舟正系を自称。障壁画の山水を得意とした。天文一六~元和四年(一五四七‐一六一八

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改訂新版 世界大百科事典 「雲谷等顔」の意味・わかりやすい解説

雲谷等顔 (うんこくとうがん)
生没年:1547-1618(天文16-元和4)

桃山~江戸初期の画家で,雲谷派の祖。肥前国(佐賀県)藤津郡能古見城主原豊後守直家の次男で,もと原治兵衛直治といった。主家滅亡後,画家となったものとみえ,天正年間(1573-92),佐世宗孚を寄親(よせおや)として,広島城主毛利輝元に,知行200石で召し抱えられた。1588年筑前に移封された小早川隆景の名島城の襖絵と伝える《梅に鴉図》(京都国立博物館)があり,同年新造の大徳寺塔頭(たつちゆう)黄梅院(小早川・毛利家外護)には,《山水図》《竹林七賢図》《芦雁図》などの障壁画が残るので,遅くとも40歳前後には,独自の風格ある画境を確立していたといえる。画風は雪舟流の水墨山水を,桃山的な大画面様式に適応させたもので,師承関係は明らかでないが,中国・北九州地方にあって,雪舟系統の作家・画跡に学び,京都で狩野派に学んだものであろう。93年(文禄2)毛利輝元から雪舟筆《山水長巻》(毛利報公会)を与えられ,雪舟の旧居雲谷庵を賜って剃髪し,雲谷等顔(雪舟等楊の等字を継承)と改名した。再興雲谷庵主として雪舟正系を標榜し,狩野派,長谷川派と画技を競ったが,雪舟に私淑する度合が大きく,復古的,もしくは観念的という批判もある。しかし,その筆致構成の大胆・克明さと冷厳沈着な武家好みの画境は,単なる旧派や雪舟亜流の位置を脱し,茶の湯連歌のたしなみもあったという人格と合わせて,すぐれた時代精神の表白と見ることもできる。1611年(慶長16)法橋叙位。《山水人物図屛風》(東京国立博物館),《群馬図屛風》(京都国立博物館),《竹林七賢図屛風》(永青文庫)などのほか,《花見鷹狩図屛風》(MOA美術館)など彩色の風俗画もある。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「雲谷等顔」の意味・わかりやすい解説

雲谷等顔
うんこくとうがん
(1547―1618)

桃山時代の画家。雲谷派の祖。肥前国藤津(ふじつ)郡(佐賀県)能古見(のごみ)城主原豊後守(ぶんごのかみ)直家の次男として生まれ、名を直治(なおはる)、通称を治兵衛といった。天正(てんしょう)年間(1573~92)父直家は肥前国有馬で戦死、自家は絶えた。このころ広島城主毛利輝元(もうりてるもと)に知行200石で召し抱えられ、のち1604年(慶長9)輝元の国替(くにがえ)に伴い、長門(ながと)国(山口県)の萩(はぎ)に移った。しかし、都での画名も高く、上京することもしばしばであった。画(え)は、初め狩野松栄(かのうしょうえい)に学ぶが、また他の桃山期の画家がそうであったように、狩野永徳(えいとく)の作品からの影響も見逃せない。

 のち雪舟(せっしゅう)に私淑、輝元の命で雪舟筆『山水長巻』を模写し、その恩賞によって、1593年(文禄2)雪舟ゆかりの雲谷庵(あん)と、この長巻とが彼にゆだねられた。これを機に剃髪(ていはつ)し、姓も雲谷と改め、名も雪舟の諱(いみな)「等楊(とうよう)」から一字をとって等顔と称したという。自ら雪舟3代を主張し、山口の地にあって桃山画壇に独自の流派を形成した。画は雪舟の雄勁(ゆうけい)な水墨法を受け継ぎながらも、整然たる構図のなかに端正で高雅な様式をもったものが多い。1611年法橋(ほっきょう)にも叙せられ、元和(げんな)4年5月に没した。墓は山口県萩市の楞厳寺(りょうごんじ)にある。代表作には、大徳寺黄梅院障壁画(しょうへきが)、東福寺普門院(ふもんいん)障壁画、『梅に鴉図(からすず)』襖絵(ふすまえ)(京都国立博物館)、『春夏山水図屏風(びょうぶ)』などがある。

[榊原 悟]

『河合正朝著『日本美術絵画全集11 友松/等顔』(1981・集英社)』

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朝日日本歴史人物事典 「雲谷等顔」の解説

雲谷等顔

没年:元和4.5.3(1618.6.25)
生年:天文16(1547)
桃山・江戸初期の画家。雲谷派の祖。本名は原治兵衛直治。肥前国津郡(佐賀県鹿島市)能古見城主原豊後守直家の次男。父の討死により家門が絶え,上京して狩野派に入門,画家を志したと伝えられる。江戸時代の画伝類は,狩野永徳あるいはその父松栄に師事したとし,天正年間(1573~92)末に安芸(広島県)の毛利輝元に召し抱えられたのちも狩野等顔と名乗ることがあった。藩内での給禄はおよそ100石,画事だけでなく連歌や茶の湯もよくした。文禄2(1593)年輝元より雪舟の「山水長巻」とその旧居雲谷軒を拝領すると同時に出家し,名も庵号雲谷と雪舟の諱等楊の1字をとって雲谷等顔と改め,雪舟の画系を継承した。後世の記録は等顔を「雪舟三世」となし,長谷川等伯と雪舟正系を争ったとも伝えるが,等顔自身は「雪舟末孫等顔筆」の款記しか残さず,事実関係は明らかでない。 関ケ原の戦(1600)後,毛利氏が周防・長門の2国に削封された際は,長男等屋を広島に残し,自らは毛利氏に従い萩(山口県)に移った。その活躍は萩・山口地方にとどまらず,大徳寺黄梅院,東福寺普門院など京洛の禅宗寺院や江戸の藩邸などでも障壁画を制作,その名は中央画壇にも知られた。慶長16(1611)年法橋,のち法眼にも叙せられる。山口の洞春寺障壁画のような金碧はまれで,山水・人物・群馬図など遺作の大半は,水墨を基調とし,精緻・謹直で抑制された表現を用いる。そのため等顔画には,他の桃山絵画のような華麗で自由奔放な気分はなく,その静かで沈鬱な表情はむしろ前代の室町水墨画に近い。<参考文献>田中助一「雲谷派の人と作品」(『国華』820号),河合正朝「友松/等顔」(『日本美術絵画全集』11巻),山本英男『雲谷等顔とその一族』

(川本桂子)

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百科事典マイペディア 「雲谷等顔」の意味・わかりやすい解説

雲谷等顔【うんこくとうがん】

桃山時代の画家。肥前国能古見城主原直家の子。本名は原直治。毛利輝元に仕え,そのお抱え絵師となる。雪舟の《山水長巻》とその旧跡雲谷庵を与えられ,雪舟正系を名乗った。雪舟風を形式化した山水画梁楷風の人物画が多く,沈鬱(ちんうつ)な画風は保守的印象を与えるが,代表作の大徳寺黄梅院方丈襖(ふすま)絵や《花見鷹狩図》など桃山風の障壁画も少なくない。子の等益〔1591-1644〕は父の画風を継承し,花鳥画にすぐれる。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「雲谷等顔」の意味・わかりやすい解説

雲谷等顔
うんこくとうがん

[生]天文16(1547).肥前
[没]元和4(1618).5.3.
桃山時代の画家。雲谷派の祖。肥前国藤津郡能古見 (のごみ) 城主,原豊後守直家の次男。通称治兵衛,名は直治。父の戦死後,毛利輝元に知行 200石で仕えたが,輝元は直治が画事に巧みなのを知って雪舟の『山水長巻』の模写を命じ,また山口にある雪舟の旧跡雲谷庵を与えてそれを復興させた。そのため,雲谷等顔と改名,みずから雪舟末孫を標榜。絵は初め狩野松栄に学んだと伝えられる。慶長 16 (1611) 年法橋叙任。山水,人物の水墨画を中心に遺作が伝わり,謹直な描線を使用。主要作品には大徳寺黄梅院蔵の襖絵『芦雁図』『竹林七賢図』『山水図』,『山水人物図』 (東福寺普門院) ,『梅に鴉図』 (京都国立博物館) などの障屏画のほか,『山水群馬図屏風』 (京都国立博物館) ,『楼閣山水図屏風』 (熊谷美術館) がある。雲谷派は等顔の長子等屋の早世後,次子等益によって継承され,本家分家合せて7家系が繁栄,江戸時代末まで続いたが,代々毛利家に仕え萩を中心に活躍したため,地方画派的性格が強い。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「雲谷等顔」の解説

雲谷等顔 うんこく-とうがん

1547-1618 織豊-江戸時代前期の画家。
天文16年生まれ。雲谷派の祖。肥前能古見(佐賀県)の城主原直家の子。天正(てんしょう)の末ごろ安芸(あき)広島城主毛利輝元につかえる。雪舟の「山水長巻」を模写。輝元から雪舟の旧跡雲谷庵をあたえられ,雲谷と名のった。作品に大徳寺黄梅院の襖絵(ふすまえ),「春夏山水図屏風(びょうぶ)」など。元和(げんな)4年5月3日死去。72歳。名は直治。通称は治兵衛。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「雲谷等顔」の解説

雲谷等顔
うんこくとうがん

1547~1618.5.3

桃山時代の画家。雲谷派の祖。名は直治。肥前国能古見城主原直家の次男。父の戦死後,広島城主毛利輝元のお抱え絵師となる。1593年(文禄2)命により雪舟筆「山水長巻」を模写。雪舟の旧跡雲谷庵を復興して雪舟正系を標榜(ひょうぼう)し,雲谷等顔を名のる。雪舟様の形式美を示す水墨山水図を数多く描いた。代表作は88年(天正16)創建の大徳寺黄梅院方丈障壁画。1611年(慶長16)法橋に叙せられる。

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旺文社日本史事典 三訂版 「雲谷等顔」の解説

雲谷等顔
うんこくとうがん

1547〜1618
安土桃山〜江戸時代初期の画家。雲谷派の始祖
肥前(佐賀県)能古美の人。武家出身。狩野派を学び,のち雪舟の画風を学んだ。毛利輝元のお抱え絵師となり,雪舟の名跡雲谷庵を再興。長谷川等伯と雪舟正統を争い,5代目と自称した。代表作に京都大徳寺黄梅院の襖絵など。

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