江戸時代後期の戯作者,浮世絵師。本名は岩瀬醒(さむる)。俗称は京屋伝蔵。別号は醒斎(せいさい),醒世老人,菊亭主人,菊軒など。父は伊勢国の出身で江戸深川に質屋を営み,京伝はその長子で弟に山東京山がいる。のちに銀座に転居。
若くして北尾重政に浮世絵を学び,北尾政演(まさのぶ)の名で,1778年(安永7)黄表紙《開帳利益札遊合(かいちようりやくのめくりあい)》の画工として出発,80年ごろから山東京伝の名で作者を兼ね,82年(天明2)《御存商売物(ごぞんじのしようばいもの)》が大田南畝に認められて出世作となり,画師として狂歌絵本にも活躍した。85年《江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)》が大評判をとるにおよんで,恋川春町,朋誠堂喜三二のあとをうけて,黄表紙の中心作者となった。寛政改革に取材した89年(寛政1)の《孔子縞于時藍染(こうしじまときにあいぞめ)》や心学流行をとり入れた《心学早染草(はやそめぐさ)》(1790)などが代表作となる。1785年《息子部屋》を初作として,洒落本に進出,吉原の遊里生活体験による豊かな知識,人間性に富んだ温かくして鋭い観察,画家として鍛えられた精緻な写実手法等によって,量質ともに洒落本の第一人者となった。《客衆肝照子(きやくしゆきもかがみ)》(1786),《通言総籬(つうげんそうまがき)》《古契三娼(こけいのさんしよう)》(以上1787),《繁千話(しげしげちわ)》《傾城(けいせい)買四十八手》(以上1790)などがとくにすぐれている。
91年(寛政3),寛政改革の出版取締令を犯して出版された《錦之裏》《娼妓絹籭(しようぎきぬぶるい)》《仕懸(しかけ)文庫》によって,手鎖(てじよう)50日の刑に処せられ,正直で小心な性格から,以後洒落本の作を断ち,謹慎を旨とし,あらためて銀座に,きせる・たばこ入れの店を開いて商売に努めた。
しかし町人作者を主勢力とする改革後の戯作界の主導者たる地位は動かず,黄表紙も多く書いたが,教訓的で理屈ばった内容のものが多く,やがて時の流行にも順応して,1804年(文化1)ごろからは仇討物なども書き出し,合巻の作者として活躍することになった。
いっぽう1799年(寛政11)には《忠臣水滸伝》によって,中国文学と日本演劇とをとり合わせるという江戸読本の新しいいきかたを示し,以後《安積沼(あさかのぬま)》(1803),《桜姫全伝曙草紙》(1805),《昔話(むかしがたり)稲妻表紙》(1806)など,古伝説や歌舞伎浄瑠璃などではなやかに彩られた読本も書いたが,勧懲思想も徹底せず,緊密な長編構成の用意にも欠けるところがあって,結局《双蝶記》(1813)を最後に,読本における曲亭馬琴との抗争にも敗れ去った。ただ寛政末ごろから実学に志して,近世初期の文化・風俗・人物等に関する考証随筆に自己の本領を見いだし,《近世奇跡考》(1804)をまず世に問い,さらに《骨董集(こつとうしゆう)》(1814-15)の完成に全力を傾注したが未完に終わった。浮世絵も政演としての豊麗な美人画や芝居絵から,晩年には京伝の本名による枯淡な肉筆風俗図のようなものが多くなっている。1816年9月56歳で没した。2度迎えた妻はいずれも吉原の遊女上りの女で子はなく,弟の山東京山がその子に京伝見世をつがせた。
→洒落本
執筆者:水野 稔
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江戸後期の黄表紙・合巻(ごうかん)・洒落本(しゃれぼん)・読本(よみほん)作者、浮世絵師。宝暦(ほうれき)11年8月15日、岩瀬伝左衛門の長子として江戸・深川木場に生まれる。本名岩瀬醒(さむる)、通称京屋伝蔵、紅葉(もみじ)山の東にあたる京橋銀座一丁目に住居する伝蔵の意で、山東京伝の号を用いる。ほかに山東庵(あん)、菊亭主人、醒斎(せいさい)、醒々老人、狂歌には身軽折介(みがるのおりすけ)などの号がある。14、15歳ごろに浮世絵師紅翠斎(こうすいさい)北尾重政(しげまさ)の門に入り、葎斎(りっさい)北尾政演(まさのぶ)を名のる。1778年(安永7)黄表紙『開帳利益札遊合(かいちょうりやくのめくりあい)』(者張堂少通辺人(しゃちょうどうしょうつうへんじん)作)の画工を務めたことから戯作(げさく)に筆を染め、『御存商売物(ごぞんじのしょうばいもの)』(1782)で一躍黄表紙作者として脚光を浴び、恋川春町(こいかわはるまち)、朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)らの武家作者と並び天明(てんめい)・寛政(かんせい)期(1781~1801)の中心的戯作者の地位を占めるが、91年(寛政3)に洒落本三部作『錦之裏(にしきのうら)』『仕懸(しかけ)文庫』『娼妓絹籭(しょうぎきぬぶるい)』で手鎖(てぐさり)50日の筆禍にあった。そののちは読本作者として新天地を開き、享和(きょうわ)・文化(ぶんか)年中(1801~1818)には曲亭馬琴に対抗しえたただ1人の作家であり、かたわら考証随筆にも名著を残している。その代表作には、黄表紙に『江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)』(1785)・『心学早染草(しんがくはやそめぐさ)』(1790)、洒落本に『通言総籬(つうげんそうまがき)』・『古契三娼(こけいのさんしょう)』(ともに1787)・『繁千話(しげしげちわ)』・『傾城買四十八手(けいせいかいしじゅうはって)』(ともに1790)、読本に『忠臣水滸伝(すいこでん)』(前編1799、後編1801)・『昔語稲妻表紙(むかしがたりいなづまびょうし)』(1806)、随筆に『近世奇跡考』(1804)・『骨董集(こっとうしゅう)』(1814、1815)などがある。
絵師としての力量も一流であり、彩色絵本『新美人合自筆鏡(しんびじんあわせじひつかがみ)』(1784)はその代表的な作品で、滑稽(こっけい)絵本に『小紋新法(こもんしんぽう)』(1786)などもある。その影響は十返舎一九(じっぺんしゃいっく)、式亭三馬、為永春水(ためながしゅんすい)らにも及んでいる。実弟に合巻作者山東京山がいる。文化13年9月7日没。本所回向院(えこういん)に葬る。
[棚橋正博]
『水野稔校注『日本古典文学大系59 黄表紙・洒落本集』(1958・岩波書店)』▽『小池藤五郎著『山東京伝』(1961・吉川弘文館)』▽『「山東京伝とその作品」(『森銑三著作集1』所収・1970・中央公論社)』▽『『図説日本の古典18 京伝・一九・春水』(1980・集英社)』
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1761.8.15~1816.9.7
江戸後期の戯作者。本名は岩瀬醒(さむる)。江戸生れ。18歳のとき北尾政演(まさのぶ)の名で黄表紙の画工をつとめて以降,「御存商売物(ごぞんじのしょうばいもの)」「江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)」などを自作して評判をとる。遊女を妻にするほど遊里に精通し,1784~91年(天明4~寛政3)の7年間に「通言総籬(つうげんそうまがき)」ほか16種の洒落本を発表するが,「錦の裏」などの洒落本3部作で筆禍をうけて断念。紙製煙草入店を開業するかたわら,「忠臣水滸伝」を執筆して前期読本の高踏性を克服。「桜姫全伝曙草紙(あけぼのぞうし)」や「昔話(むかしがたり)稲妻表紙」などで読本の第一人者となるが,曲亭馬琴との競争に敗れた後は,合巻「松梅竹取談(まつとうめたけとりものがたり)」や考証随筆「近世奇跡考」「骨董集」に才能をみせた。
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…浮世絵研究の基礎的な文献として価値が高い。1790年(寛政2)ころ大田南畝が原撰し,1800年笹屋邦教が〈始系〉を付記,さらに02年(享和2)山東京伝が〈追考〉を加え,文政年間(1818‐30)式亭三馬が増補した。以上をもとに,33年(天保4)渓斎英泉が《無名翁随筆》(別名《続浮世絵類考》),44年(弘化1)斎藤月岑が《増補浮世絵類考》,68年(明治1)竜田舎秋錦が《新増補浮世絵類考》を,それぞれ書きついでいる。…
…男湯と女湯に分け,各編の季節に変化をもたせている。作者は咄家(はなしか)三笑亭可楽の銭湯の落語にヒントを得て執筆したと言っているが,前編は伊藤単朴作の教訓的滑稽本《銭湯新話》(1754)と,山東京伝作の黄表紙《賢愚湊(けんぐいりこみ)銭湯新話》(1802)の影響が大きい。落語の話芸と洒落本以来の描写の技術を吸収して,徹底した平面描写で類型的な江戸の庶民像を描いている。…
…黄表紙。山東京伝(北尾政演(まさのぶ))画作。3冊。…
…江戸っ子の根生骨,万事に渡る日本ばしの真中から〉とある。作者の山東京伝は,江戸っ子の典型を,将軍のお膝元しかも下町の中心街に生まれ育った粋な町人とすることにより,はっきりと〈田舎者〉の野暮に対置している。さらに,一等地にある屋敷を売り払っても吉原を総揚げするという,金ばなれのよさや尻の穴の大きさに江戸っ子の典型をみることにより,明らかに〈上方贅六(ぜいろく)〉のけちとも対置している。…
…これと同時に出版統制令を発し,風俗をみだす好色本類や,政治批判を内容とする出版物を禁じた。事実,洒落本作家の山東京伝と版元の蔦屋重三郎は,この出版統制令違反で処罰された。寛政期は対外緊張が高まった時期でもある。…
…春町の友人朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)も《親敵討腹鞁(おやのかたきうてやはらつづみ)》(1777)を出し,以後両人の多くの名作によって,“通(つう)”と“むだ”すなわち洒落と機知によるおかしさをねらった成人の漫画ともいうべき作風がうち立てられた。やがて芝全交(しばぜんこう)《大悲千禄本(だいひのせんろつぽん)》(1785),唐来参和(とうらいさんな)《莫切自根金生木(きるなのねからかねのなるき)》(1785),山東京伝《江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)》(1785)などによって,天明年間(1781‐89)には黄表紙全盛期を迎えたが,天明末の田沼政権の没落と松平定信の寛政改革に取材した,喜三二《文武二道万石通(ぶんぶにどうまんごくどおし)》(1788)や春町《鸚鵡返文武二道(おうむがえしぶんぶのふたみち)》(1789)その他が当局の忌諱に触れ,取締りが厳しくなった。京伝は《心学早染草(しんがくはやそめぐさ)》(1790)で,いちはやく黄表紙が排除してきた理屈臭さを表に掲げて心学教化風の作品を出した。…
…1冊。山東京伝作画。1790年(寛政2)刊。…
… 古く江戸時代には,開店や大売出しのときに〈景物本〉と呼ばれる本が配られた。その最初のものは,1792年(寛政4)に山東京伝が日本橋の紅問屋玉屋の開店記念に書いた《女将門七人化粧》2巻だとされている。京伝のほかにも,曲亭馬琴,十返舎一九,式亭三馬などが景物本を書いている。…
…江戸後期の随筆。岩瀬醒(さむる)(山東京伝)著,自画。大田南畝序。…
…読本。山東京伝著。初代歌川豊国画。…
…黄表紙。山東京伝作。北尾政美(まさよし)画。…
…これもまた馬琴の合巻《傾城(けいせい)水滸伝》に影響を与えた。水滸伝物の流行は江戸の草双紙類にも浸透するようになり,山東京伝は1789年(寛政1)刊の洒落本《通気粋語伝》で《水滸伝》を翻案し,また92年刊の黄表紙《梁山一歩談》《天剛垂楊柳(てんごうすいようりゆう)》にその梗概を綴り,ついで94年には振鷺亭が《水滸伝》の趣向を世話狂言に仕立てた《いろは酔故伝》を出したが,文字の世界を超えて演劇の世界と《水滸伝》を接合させるというこの着想を受けて,馬琴の読本処女作《高尾船字文》が出た。これは《水滸伝》の一部を人形浄瑠璃や歌舞伎の名作《伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)》の枠組みの中に複合し,道徳的教訓を盛って御家騒動物に仕立てたものである。…
…読本(よみほん)。山東京伝作,北尾重政画。前編は1799年(寛政11),後編は1801年(享和1)刊。…
…日本では看板に次いで最も古い広告手段の一つで,不特定多数を相手とする商業への転換期にあった江戸時代後期に至ると強大なメディアとなる。平賀源内,山東京伝などの戯作者が引札に広告文を書いている。現代でもちらしは,経費が安く,簡便であるため,有用性の高い広告媒体である。…
…洒落本。山東京伝作。1787年(天明7)刊。…
※「山東京伝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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