中国東部,杭州湾南岸,浙江省余姚県河姆渡村に存する中国新石器時代早期の遺跡。1973-74年に発掘された。遺跡は丘陵と平原の過渡地にあり,4層からなっている。最下層の第4層には高床式建築遺構の基礎と考えられる円柱,方柱,板などを打ち込んだ13の杭列が発見された。遺跡が沼沢地に面していたことに高床の原因があるらしい。用材には枘(ほぞ)や枘穴があり,建築工芸のさえが見られる。これらの加工には石斧と石鑿が使われたが,刃部磨製の初期段階のものである。またこの層中には厚さ20~50cmにわたる米,稲の殻・茎・葉の堆積層があり,稲作栽培が行われていたことがわかる。米は長粒の秈稲である。農具には偶蹄類の肩甲骨を利用した骨耜(こつし),木鏟(もくさん)がある。煮沸具は丸底の釜が基本で,これに支脚が組むが,鼎は出現していない。ほかに器台,双耳缶がある。胎質は夾炭で有文が多い。用途不明の蝶形器(石・骨・土製)は第4層にあらわれ,第3層に継続する。第3層も第4層と同様の内容を持つが,土器に文様は少なくなる。この両層を〈河姆渡文化〉と称しているが,長江下流域で青蓮崗文化(青蓮崗遺跡)に先立つ,今のところ最古の新石器文化である。第4層の炭素14法による年代測定では,最古のものは6960±100年B.P.である。第2層は青蓮崗文化初期の馬家浜相当期で長方形石刀,石(せきほん),夾砂灰紅陶,泥質黒陶,木組井戸などがあり,第1層は青蓮崗文化中期の崧澤中層墓に相当している。
執筆者:下条 信行
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中国浙江(せっこう)省余姚(よよう)県の河姆渡で発見された新石器時代の集落遺跡。年代は放射性炭素の測定値から紀元前5000年から前3000年。稲の籾殻(もみがら)が大量に発見され,人工的に稲が栽培されていたことがわかった。稲作はこの江南の地で生まれ,日本列島へ伝播したとする見方も出されている。そのほか陶製の小型の竈(かまど),骨製で木の柄の鋤(すき),イノシシや犬などの家畜の骨,建築材などが出土している。長江下流域の江南の新石器文化の典型として,河姆渡文化と呼ばれる。
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[河姆渡文化から良渚文化へ]
この豊かな自然を基盤に,非常に早くから農耕文化が発達していた。湾の南岸中央,余姚(よよう)県の河姆渡(かぼと)遺跡は前5000‐前4500年ころの長江流域で最も古い新石器時代遺跡で,水稲耕作,家畜飼育,南方特有の干闌式の住居などが確認されている。この文化は北方の黄河流域の仰韶(ぎようしよう)文化とはまったく異なったもので,当時,中原とは別の生活様式をもつすすんだ文化が発展していたことを示す。…
…唐代に市の南西にある四明山にちなんで明州と呼ばれてより,その名で知られる。杭州湾南岸平野は,温暖な気候と豊かな土壌に恵まれ早くから稲作農耕が発達し,市の西,余姚(よよう)県にある河姆渡(かぼと)遺跡は中国南部で最も早い新石器時代遺跡として著名。春秋時代には会稽(紹興)に中心のあった越の後背地であり,秦・漢には句章(こうしよう)県,鄞(きん)県,鄮(ぼう)県等が置かれ会稽郡に属した。…
…明・清には,王守仁(陽明),朱舜水,黄宗羲など浙東学派の指導者を輩出した。南の四明山は名勝の地として有名で,また市の東,余姚江沿いに長江(揚子江)下流域で最も古い新石器時代文化層を有する河姆渡(かぼと)遺跡がある。【秋山 元秀】。…
※「河姆渡遺跡」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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