日本歴史地名大系 「泉福寺跡」の解説 泉福寺跡せんぷくじあと 徳島県:阿南市本庄村泉福寺跡[現在地名]阿南市長生町 宮ノ本宮(みや)ノ本(もと)にある八幡神社の神宮寺として創建されたといわれる。文和三年(一三五四)二月日の橘頼貞等寄進状写(隆禅寺文書)によると、竹原(たけはら)庄本郷恒貞名内の畠二反(八幡宮前にある又五郎の屋敷内の土地)が泉福寺に寄進されている。また永和二年(一三七六)二月九日の梵祚若宮免宛行状写(同文書)では当寺の坊主に竹原本郷地頭方にある若宮免として田畠三反が宛行われている。さらに隆禅(りゆうぜん)寺が所蔵する明徳三年(一三九二)二月九日の泉福寺鐘銘には阿州南方竹原本郷泉福寺とみえ、先の別当隆印によって再興が図られ、現在の別当である隆宣が勧進し、庄主昌隆が大願主となってこの鐘が鋳造されたとある。天正一六年(一五八八)一二月二〇日、蜂須賀氏から寺屋敷五ヵ所の寄進を受けている(「蜂須賀家政判物写」隆禅寺文書)。 泉福寺跡せんぷくじあと 熊本県:鹿本郡鹿本町庄村泉福寺跡[現在地名]鹿本町庄 小路庄(しよう)の集落中央にあり、「国誌」によれば竜徳山密厳院と号し、真言宗、高野山金剛峯寺の末、開基・建立年代不明、元禄五年(一六九二)金剛乗(こんごうじよう)寺(現山鹿市)から堂守として入った入真が復興したという。また寛政二年(一七九〇)の寺社間数就御改御達申上候覚帳(森文書)には永暦元年(一一六〇)平重盛が建立、その後寺領も召放され無縁地となり、永禄年中(一五五八―七〇)の再興を伝える。同帳によると境内一反一畝余、本堂には毘沙門天や吉祥天女・弘法大師などの六木像、御位牌所に観世音、鎮守堂に聖天像があり、ほかに庚申堂・客殿・庫裏、石地蔵一体があるが、寺領・山藪・寄付米銀・祈祷料はまったくないという。 泉福寺跡せんぷくじあと 茨城県:東茨城郡御前山村野口平村泉福寺跡[現在地名]御前山村野口平門井(かどい)村寄りの高台にあった寺で、現在寺跡は山林と墓地で、多数の石塔が散在する。曹洞宗、万福山平安院と号した。本尊は不詳。大同元年(八〇六)野口(のぐち)村の佐伯(さえき)明神と同時の開基と伝えるが、延徳三年(一四九一)相州小田原(現神奈川県小田原市)海蔵(かいぞう)寺の二代目住持竹翁が中興するまでの寺歴はつまびらかでない。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by