改訂新版 世界大百科事典 「洋擾」の意味・わかりやすい解説
洋擾 (ようじょう)
19世紀後半に,鎖国を続ける朝鮮にフランスとアメリカが武力を用いて開国を強要した事件で,丙寅(へいいん)洋擾と辛未(しんみ)洋擾がある。いずれも大院君政権(1863-73)の鎖国攘夷政策(衛正斥邪)の下で起きた。丙寅洋擾は1866年(丙寅の年)の二つの事件,ゼネラル・シャーマン号事件とフランス艦隊襲撃事件の総称である。前者は,同年9月にアメリカの武装商船のシャーマン号が交易を求めて大同江を溯上し,交戦の末,平壌付近で焼き沈められ,乗組員全員が死亡した事件である。この事件は,後述の辛未洋擾の原因となった。フランス艦隊襲撃事件は,同年3月にベルヌー司教以下9名のフランス宣教師が処刑された丙寅教獄に端を発する。このとき難をのがれた3人の神父のうちリデルが清の芝罘(チーフー)に救援を求めた結果,フランス艦隊が出動した。出動は2回行われた。1回目は,旗艦プリモウゲ以下3隻による漢江下流域の偵察行動(1866年9~10月),2回目は旗艦ラ・ゲリエル以下7隻による江華府の占領と漢江河口の封鎖であった(同年10~11月)。しかしフランス側が目的とした丙寅教獄の責任追及と条約の締結は,朝鮮側の武力抵抗と持久戦によって失敗に終わった。
辛未洋擾は1871年(辛未の年)に起きたアメリカ艦隊の襲撃事件であり,その原因はシャーマン号事件にあった。アメリカは同事件の生存者確認のために,1867年1月に軍艦ワチュセットを,翌68年4月に軍艦シェナンドアを派遣し,事件の真相究明に当たらせた。71年5月には,旗艦コロラド以下5隻を派遣した。同艦隊(司令官,ロジャーズ少将)は6月,朝鮮側の攻撃を退けて江華島の軍事拠点を壊滅させたが,朝鮮政府によって交渉を拒否され,むなしく芝罘に帰還した。
丙寅,辛未の両洋擾でフランスとアメリカの要求を退けたことは,大院君政権に自信を与えた。その結果,同政権は,〈洋夷侵犯,非戦則和,主和売国。戒我万年子孫。丙寅作辛未立〉と刻んだ石碑(斥和碑)を全国に建立し,断固とした鎖国攘夷の意志を示した。朝鮮が欧米諸国に開国するのは,政権が大院君から閔(びん)氏に移り,江華島事件をへて日朝修好条規(1876)を締結して以後のことである。
執筆者:原田 環
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報