改訂新版 世界大百科事典 「ウルシ」の意味・わかりやすい解説
ウルシ (漆)
varnish tree
lacquer tree
Rhus verniciflua Stokes
漆をとるために栽培するウルシ科の落葉高木。高さ20mに達し,秋の紅葉が美しい。樹皮は灰白色で表面は粗く,縦に不規則に裂開する。小枝は太く,はじめ柔毛を有する。互生する葉は奇数羽状複葉で,長さ25~40cm。小葉は9~15枚で,卵形ないし卵状長楕円形,長さ7~20cm,短い柄を有し,裏面に短毛を有する。花は葉腋(ようえき)につき,円錐花序は長さ12~25cm。花は雑性または雌雄異株,直径約1mm,黄緑色。果序は下垂し,果実は扁円形で直径6~8cm。
インドシナ半島からインドにかけて分布するハゼノキのインドウルシと呼ばれる型からは,質は悪いが漆が採取される。漆は英語でJapanese lacquerと呼ばれるように,東アジア地域にほぼその利用は限られている。液の主成分はウルシからとれるものではウルシオールで,インドウルシではよく似たラッコールである。そのほかウルシ科の他の種,たとえばアンナンウルシGluta usita(Wall.)Ding Hon.からも漆液に似た樹脂が採取されることがある。これらの漆液は空気にさらされ酸化されると黒変し,硬化するので塗料や接着剤として用いられる。一度硬化した漆は化学変化に強く,耐久性があり,ヒマラヤから東アジア地域(照葉樹林帯)で,器具や食器の塗装,彫刻,装身具,小さな器物の接着に古くから利用されてきたが,漆の硬化には一定の湿度が必要なため,世界的には日本で最も多彩な利用技術が発達した。しかし,その源は中国大陸である。またウルシの分布はヒマラヤ,中国にかけての暖温帯・照葉樹林帯で,日本には古くに導入されたものである。樹皮を傷つけ漆をとるほか,材は細工物とし,果実から良質の木蠟がとれ,新芽は可食で強壮剤となる。
近縁のヤマウルシR.trichocarpa Miq.は外見ウルシに似ているが,葉の最下部の1対が他の小葉より小さく,果実は扁歪円形で表に短い刺毛があるので区別できる。日本の特産で北海道,本州,四国,九州に分布する。3出葉を有するつる性のツタウルシR.ambigua Lavallée ex Dippelはサハリン,南千島,北海道,本州,四国,九州,台湾に分布する。小葉は楕円形ないし卵形で長さ5~15cm。葉にラッコールを含み,ふれるとウルシと同様ひどくかぶれる。
ウルシ科Anacardiceae
ウルシやハゼノキ,マンゴーを含む双子葉植物で,60属約400種を有する。すべて木本で熱帯を中心に一部は温帯に分布する。落葉または常緑の高木または低木でまれにつる性。樹皮には樹脂道を有し,葉は互生,まれに対生または3出,複葉または単葉。腺点がないのでミカン科と区別がつく。花は両性花または単性花で通常5数性,円錐花序につく。子房は同位あるいは上位または下位。萼片は3~5枚,花弁は3~5枚。おしべは5本または10本。果実は通常脂質の中果皮を有する核果,または堅果,まれに裂開性。マンゴー,カシューナッツ,ピスタシオ,イボモモ,アカタネノキ,インドウミソヤ,タマゴノキなどは果樹として重要で,ウルシは漆を,ハゼノキは蠟を生産する。またハグマノキ,コショウボクは観賞用とされる。
執筆者:初島 住彦+堀田 満
漆の採取
漆はウルシ属樹木の内樹皮乳管が分泌する樹液で,それを採るため,樹木は計画的に植栽される。植栽は10月中・下旬に種子の採取を行うことから始まる。種子は硫酸処理などで蠟を除いてから,春,苗床にまく。3~5週で発芽する。1年経過後根を掘りとり,長さ14~15cmに切り,畑地に植える。これから出た芽が7~10年たつと漆採取用の木になる。漆の採取は6月下旬~11月下旬に行われる。日本ではその採取作業(およびそれに従事する人)を〈漆搔(か)き〉と呼び,石川県の能登,福島県会津地方,新潟県北部からの出稼ぎの人々がその仕事にあたった。採取方法は,おもに1年間で樹液を採りつくしてしまう殺搔(ころしがき)法であるが,ほかに数年間とり続ける養生搔(ようじようがき)法もある。殺搔法ではまず樹皮の表面だけをけずり,目安のため表皮だけに浅い傷をつけてから,そこの上数mmに,形成層に達する程度まで深く傷をつける。これを搔溝(かきみぞ)という。樹液を出す乳管は形成層の外側の内樹皮部にあるから,この程度の傷で乳白色の樹液が流れでてくる。搔溝は4~5日おきにそれぞれ前回の数mm上につけられ,そのたびに漆をとる。このような作業を辺搔(へんがき)と呼び,合計20~25回行う。採取した漆はとった季節で区別し,初漆(はつうるし)(6月中旬~7月中・下旬),盛漆(さかりうるし)(7月下旬~8月中・下旬),末漆(すえうるし)(9月上旬~下旬)と呼んで,品質表示の目安とする。盛漆の品質が最も良い。樹液を完全にとるため,辺搔のあと裏目搔,止搔(とめがき)などの作業を行い,漆をとる。ウルシの木1本当りの収量は木の太さにより違うが,だいたい60~250gである。樹液をとり終わると木は勢いが衰え,2度と健全には生育しないので,根元から切り倒す。その切株から芽が出,新しい木が育ち,5~7年たつと再び漆が採れるようになる。樹木から採ったものは生漆(きうるし)と呼ばれ,水分15~25%を含む。そのまま塗ったのでは光沢が悪く,乾きも早すぎるので,脱塵,脱水,均質化などの精製処理を行ってから,添加物を加えて使う。生漆を干して固めたものを乾漆(かんしつ)という。
日本における漆の生産量は,1877年の約800tから1930年約30t,1995年3tと激減した。現在使われている漆の大部分は中国,ベトナム産である。しかし近年,伝統工芸保護の立場から国が助成を行い,生産量は少しずつ上向いている。
漆の成分
日本で使われている漆には,日本産のウルシのほか中国産のウルシやハゼノキ,東南アジア産のアンナンウルシより採ったものがある。樹種が違うので,それぞれからとった漆は含有成分が違い,日本産のものが最もよいとされている。日本産生漆の主成分はウルシオール(70~80%)で,ほかにゴム質(8%),含窒素物(2%),水分などを含む。塗ると固まるのは,空気に触れてウルシオールがラッカーゼという酵素によって高分子化されるためである。漆塗りの工程には,調湿,換気,保温など,酵素反応の進行を制御する作業が多く含まれている。
漆かぶれの防除と治療
漆にかぶれるのはウルシオールのためである。皮膚などから入ったウルシオールにより人によってはアレルギー状態になる。その状態になっている人は,ごく微量のウルシオールと接してもかぶれ,ウルシの木の近くを通っただけでもかぶれる。かぶれを防ぐには,漆に接する前に油を肌に塗り,仕事をおえたときにはすぐ洗いおとすのが良い。かぶれたときには,すぐ漆に触れるのをやめ,医師の処置を受ける。外国にはウルシ科以外の木材にもかぶれるものが多く,あるものは日本でも使われている。この場合のかぶれは,木粉に触れたときにおきる。
執筆者:善本 知孝
中国における漆林経営
中国では殷・周時代から漆液の利用が行われ,漆樹の生育に関する記載も早くから見えている。《詩経》では〈鄘風(ようふう)〉〈唐風〉〈秦風〉に漆が見えているが,その生育地は今日の河南・山西・甘粛などとなっている。また《山海経》にも漆樹の生育地が見え,それはだいたい華北で,西は陝西(せんせい)から東は山東まで散在している。以上は漆樹の生育地を示すもので,必ずしも漆液が採取されたというわけではない。ただ〈鄘風〉つまり河南地方の詩では漆を琴瑟(きんしつ)製作に使用することになっている。ほかに《書経》禹貢篇では兗州(えんしゆう)・予州から貢納する品物の中に漆がふくまれている。兗州は山東・河北・河南にまたがり,予州は河南から湖北にかけてである。《周礼》夏官職方氏にも予州から漆を産することが見えている。漢代についても,《史記》貨殖列伝などを見ると,山東や陳・夏(いずれも河南地方)が漆の産地として有名であり,さらに《塩鉄論》本議篇によると,兗・予以外,隴(ろう)・蜀つまり甘粛や四川地方が漆の産地としてあげられている。以上は華北を中心に記載している史料に見えるもので,南の地方でも漆を産することがあったと思われる。たとえば,近年湖南省の長沙から戦国時代の漆器が多く出土しており,その地方で製作されたことが明らかなものもある。唐代になると,《通典》《唐書》などに漆を貢納する産地が見え,長江(揚子江)流域の山南道や江南道が代表的産地であることがわかる。時代をさらに下げ,今日の産地を見ると,陝西・四川・湖北・湖南・貴州・安徽・浙江などの各省で,とくに四川・湖北の産額が最も多い。つまり漆の主産地は漢以前は山東・河南であったが,唐以降は長江中・上流地方に移ったようである。
ところで漆樹は野生のものも多いが,人為的な栽培も早くから行われていたと思われる。古くは漆林は君主の家産と考えられたようであるが,君主が直接経営したり,民間に貸して税を収めたりしたようである。《周礼》地官載師に漆林の征が見えている。戦国時代には官府だけでなく,農家の副業としても漆林の経営が行われ,すでに商品として流通することがあったようである。《史記》貨殖列伝に投機商人の白圭が漆を商品として取り扱ったことが伝えられている。その後も漆林の経営は官府によるものと民間の人たちによるものとがあり,漢代以降は民間においてかなり大規模に経営するものが現れている。《史記》貨殖列伝では陳・夏地方で〈千畝の土地に生育した漆の富は千戸の侯に等しい〉としている。後漢の崔寔(さいしよく)の《四民月令》正月の条に漆樹を移植することが見えており,当時の豪族が漆樹を栽培していたことがうかがわれる。その後,中国の農書には漆について記述しているものが多く,たとえば元の王禎の《農書》は漆はほうぼうにあるが,梁(河南)・蜀(四川)のものがよく,春分前後に移栽し,木がのびたら6~7月に皮を切って漆液をとるとし,また漆は〈成り易(やす)く,利博(ひろ)し〉とし,有利な経済作物であることを述べている。
執筆者:佐藤 武敏
日本における利用
日本では縄文前期の鳥浜貝塚から漆塗櫛・容器が出土し,漆の利用が古いことを示している。伝説では《色葉字類抄》に倭武皇子(やまとたけるのみこ)が阿貴山で漆樹で指を染めたのでその汁を塗らせ,漆部官を任じたとある。586年ころ物部氏の下に漆部造兄の名が知られ,組織的に漆器が造られたと考えられる。大宝令(701)では大蔵省の下に漆部司をおき,漆部20人を擁し,出雲や遠江などの地方にも漆部が置かれた記録がある。仏教の隆盛は漆の消費を促し,賦役としてクワ300根に対しウルシ100根の植栽が義務づけられた。主産地は陸奥,上野,越国であった。平安時代にも諸国の貢漆を集め,宮廷,貴族の日用品を賄い,《延喜式》にみる漆器の種類は多種にわたる。808年(大同3)漆部司は内匠寮(たくみりよう)に合併,漆室は方35丈,漆部は20人を有した。一方,黒漆鞍,塗漆韓櫃(からびつ)を上貢したという記録から荘園制度による地方豪族の成長がうかがえる。鎌倉時代には荘園とともに官衙(かんが),寺院での漆業が定着,紀州根来寺(ねごろでら)における生産がそれを示し,永仁6年(1298)銘をもつ東大寺蔵の朱塗《練行衆盤》の簡潔な髹漆(きゆうしつ)は,地方において興業が可能だったことを物語っている。それまで貴重品であった漆器も,室町時代以降しだいに一般化し,15世紀半ばには天王寺門前で塗物を販売する店があったこと,武蔵国でも領主から塗物の販売を許可されていたことが知られる。塗師はその技術で寺院などに年貢を納め,天皇または幕府の手形を持って全国を渡り歩いた。日本各地で出土する中世の椀類に技術的に多くの類似性があるのはこのような理由によるものであろうか。このころの《七十一番職人歌合》《鶴岡放生会職人歌合》などに塗師,蒔絵師が描かれている。このような漆産業の地方化,一般化は武具類の自給を促し,地場産業として大名が漆および漆製品の生産を積極的に進めはじめる。会津では蒲生氏が,山口では大内氏が,静岡では今川氏がそれぞれ力をそそぎ今日の繁栄の基礎をつくった。江戸時代には納税の一種として漆年貢もあり,幕府には漆奉行が置かれ漆の収納,社寺の什器(じゆうき)をつかさどった。江戸時代中期にその産地は25ヵ所を数え,各藩で漆器生産販売の保護,奨励が進み,城下には塗師町も形成され,現在見られる漆器産地のほとんどが出そろった。各藩は漆樹から蠟も採取したため藩の重要な財源となった。会津藩では最盛期には漆樹180万9726本を数え,南部藩では明治ころまで漆並木があったという。幕末における漆の価格は10匁で76文(米1升は71文)である。主産地の一つ会津には漆業者230名が組を作って自主販売し,〈椀無尽〉などで国内の需要拡大を図り,藩は江戸会津産物会所を設けて販売を促進した。また会津,静岡,黒江漆器は長崎,横浜から海外輸出もされたが,その量はまだわずかであった。1874年には〈起立工商会社〉〈精工社〉が創立され,宮内省用品を造り,漆器の海外輸出をおこなった。
→漆工芸
執筆者:中里 寿克
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報