洲本城跡(読み)すもとじようあと

日本歴史地名大系 「洲本城跡」の解説

洲本城跡
すもとじようあと

[現在地名]洲本市小路谷 御熊山、山手一―二丁目

洲本市街南部を画する、標高約一三二・三メートルの三熊みくま山にある。須本城とも記される。城跡は山頂の山城と山麓の居館からなる。現在の遺構は近世初頭に築かれたもので、山城・居館とも総石垣構造を有する。近年の山麓市街地の発掘調査によれば、戦国時代から江戸初期の遺構や遺物が検出され、中世段階の城下が明らかになりつつある。山城は本丸・南の丸・武者溜などを中心とし、西側にやや離れて西の丸を配置する。本丸には北面する連結式の天守台跡があり、昭和三年(一九二八)に建てられた模擬天守が建つ。いっぽう山麓の居館跡は近世阿波徳島藩の役所(居館)として使用されたもので、周囲を石垣と堀で囲い、要所に櫓を配し、内部は御殿構造をもつ本格的な城郭遺構である。また山頂の遺構と山麓の居館をつなぐ上り石垣があり、当城は総構えを意識した城郭であることが知られる。

〔中世〕

築城の時期は不明だが、天文二三年(一五五四)には三好長慶の実弟安宅冬康が在城した。しかし永禄七年(一五六四)五月九日に冬康は飯盛山いいもりやま(現大阪府四條畷市)で誅殺され、後を嫡子安宅信康が継いだ(細川両家記)。信康は元亀元年(一五七〇)細川氏に従って摂津福島ふくしま(現大阪市福島区)で織田信長方と対陣したのち、ほどなく当城で没したという。信康の没後、由良ゆら城にいた信康の兄弟貴康が天正九年(一五八一)信長に降ったのち当城に入った(阿州将裔記)。その後菅平右衛門尉が入り、羽柴秀吉に対抗したが、同一〇年城は羽柴方に落された(同年八月二一日か「石田三成書状」広田文書)。その後四国に対する備えとして秀吉配下の仙石秀久が入城(「南海治乱記」など)。一時期土佐長宗我部氏と結ぶ菅平右衛門尉が城を奪還したが、すぐに淡路の国衆が奪い返した(「元親一代記」など)。同一三年一〇月には仙石氏に代わって脇坂安治が入城した(「多聞院日記」同年八月二三日条、「龍野脇坂家家譜」など)。翌一四年一一月三日安治は津名つな郡内三万石を秀吉から与えられ(「羽柴秀吉領知判物」脇坂文書など)、また三原みはら郡の秀吉蔵入地一万一千五三〇石の代官にも任じられた(淡路国御蔵入目録)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「洲本城跡」の解説

すもとじょうあと【洲本城跡】


兵庫県洲本市小路谷・山手にある城跡。別名、三熊(みくま)城。淡路島の南東、洲本市街地の南にそびえる標高約130mの三熊山に位置する。東西約800mの範囲に総石垣の曲輪(くるわ)が展開し、南に大手門を開き、北の最高所に天守を配して紀淡海峡を見下ろし、はるか彼方に大阪の市街地を遠望する。天守の南下に本丸、その南東側に南の丸、東の丸・用水池を、西側には西の丸を配し、北の急斜面には2本の登り石垣と小規模な曲輪、十数本の大規模な竪堀(たてぼり)を設けている。石垣のほとんどは野面(のづら)積みであるが、隅石垣などの一部には、方形に整形した石材を密着させて積み上げる技法や長辺と短辺を交互に重ねる算木積みの技法が用いられている。築城は1526年(大永6)、三好氏の重臣で、紀伊の水軍勢力の安宅(あたぎ)治興による。1582年(天正10)に羽柴秀吉に降って後には仙石(せんごく)秀久、脇坂安治が在城した。脇坂氏のころには、大坂城を守り、秀吉の西南方への進出拠点の城として、現在の遺構のような修築が行われた。1615年(元和1)、大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡し、淡路は徳島藩主蜂須賀(はちすか)氏の所領となり、一時期、拠点が由良(ゆら)城(洲本市)に移されたが、1635年(寛永12)には城下町ごと移転した「由良引け」によって洲本城に再び本拠を移した。しかし、政庁機能は山麓の城に移され、以後、明治維新まで淡路統治の拠点となった。洲本城跡は、戦国時代から幕末までそれぞれの時期の築城技術がみられ、海に臨む水軍の拠点城郭としても貴重であり、1999年(平成11)に国の史跡に指定された。洲本バスセンターから淡路交通「公園前」下車、徒歩約40分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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