日本歴史地名大系 「浅原村」の解説
浅原村
あさはらむら
大永二年(一五二二)六月一三日付陶興房書状(「閥閲録」所収三分一惣三郎家文書)に「浅原村」とみえる。同書状と「麻原」と記される同四年六月一八日付友田興藤感状(「芸備郡中士筋者書出」所収山田治右衛門所伝文書)などにより、この頃厳島社神主職継承争いで当地辺りがその戦場となったことが知れる。天文一〇年(一五四一)には大内氏の支配地となり、同年七月五日付大内氏奉行人連署奉書(厳島野坂文書)では、厳島社修理替物の足付として「御神領佐西郡麻原村并虫所山神米拾九石九斗余」とある。この頃麻原郷ともよばれ、同一三年五月一八日付の厳島年中祭料条々案并陶晴賢奉行人証判(同文書)によれば、
浅原村
あさばらむら
「甲斐国志」が引く明徳二年(一三九一)の法善寺領記に「奈胡荘浅原郷中泥村」とあり、
浅原村
あずらむら
浅原村
あさばらむら
浅原村
あさばらむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報