浅原村(読み)あさはらむら

日本歴史地名大系 「浅原村」の解説

浅原村
あさはらむら

[現在地名]佐伯町浅原

栗栖くりす村の南に位置し、西は周防国玖珂くが(現山口県)に相対する。木野この川の上流域にあたり、その流域の平地に集落が展開する。村名は、往古この地に植えた麻が大いに成長したことによると伝える。

大永二年(一五二二)六月一三日付陶興房書状(「閥閲録」所収三分一惣三郎家文書)に「浅原村」とみえる。同書状と「麻原」と記される同四年六月一八日付友田興藤感状(「芸備郡中士筋者書出」所収山田治右衛門所伝文書)などにより、この頃厳島社神主職継承争いで当地辺りがその戦場となったことが知れる。天文一〇年(一五四一)には大内氏の支配地となり、同年七月五日付大内氏奉行人連署奉書(厳島野坂文書)では、厳島社修理替物の足付として「御神領佐西郡麻原村并虫所山神米拾九石九斗余」とある。この頃麻原郷ともよばれ、同一三年五月一八日付の厳島年中祭料条々案并陶晴賢奉行人証判(同文書)によれば、虫所山むしところやま土毛田ともた(友田)および吉和よしわ(現吉和村)の各郷とともに山里やまざと四郷と総称されていた。


浅原村
あさばらむら

[現在地名]若草町浅原

藤田とうだ村の東、釜無川の氾濫原の平坦地に立地。東境を釜無川が南流し、西境滝沢たきざわ川の支流よこ(西川)が南流する。南は東南胡ひがしなんご(現甲西町)。枝郷に三軒屋さんげんやがある(甲斐国志)。村名は方言で蛇を「アザ」と訓じるが、南胡氏一族の浅原八郎為頼が正応三年(一二九〇)宮中に乱入して自害した非業にまつわって為頼の醜名を「疵腹あざばら」と唱えられたことにかかわるという(甲斐国志)

「甲斐国志」が引く明徳二年(一三九一)の法善寺領記に「奈胡荘浅原郷中泥村」とあり、奈胡なご庄に含まれていた。また同書が引く武田古系図に「奈胡郷土手外七郷」の一として浅原があげられている。天正一〇年(一五八二)一二月五日の徳川家印判状写(中巨摩郡志)によると、饗場修理亮は徳川家康から「浅原之内阿住分八百文」を本給として与えられている。


浅原村
あずらむら

[現在地名]綾部市睦合むつあい町 浅原

上林かんばやし谷の小支谷、浅原川の流域。南は堀尾ほりお嶺を越えて船井郡和知わち谷の養立よだち(現和知町)に通ずる。

中世は上林庄の地。村名は文明二年(一四七〇)の川北奥太夫覚状(川北家文書)にみえるのが早い。

<資料は省略されています>

同年の川北甚右衛門譲状(同文書)にも、

<資料は省略されています>

とあって「あすら」の地名がみえる。

近世には村高を分け、奥浅原おくあずらは旗本小山藤懸氏領(三九石)


浅原村
あさばらむら

[現在地名]大間々町浅原

小平おだいら川の下流、やや低平に広がった左右両岸および支流の入山沢いりやまさわ川・月下つけぎ沢の両岸に位置。東は小平村・長尾根ながおね村、南は渡良瀬川を挟み二軒在家にけんざいけ村、西は塩原しおばら村および勢多せた塩沢しおざわ村。字天神前てんじんまえの阿久沢家墓地に元亀四年(一五七三)銘の輪廻塔があり、銘文に「奉造立六地蔵 庚申供養朝原 村本願弥佐衛門 人数四十一人也」とある。阿久沢家は当地に勢力をもった土豪で、天正一二年(一五八四)北条氏から阿久沢彦二郎に与えられた地に「仁田山之内 あ(さカ)原」(同年五月二八日「北条家朱印状」阿久沢文書)とみえ、当地のことと推定される。


浅原村
あさばらむら

[現在地名]倉敷市浅原

生坂いくさか村の西にあり、「備陽国誌」が「山村」とするように、ふく山の南面谷間に位置する。平安時代以来、「浅原千坊」と俗称される寺坊群とともに開けた古い集落である。「太平記」巻一六に建武三年(一三三六)五月一五日の備中福山合戦に際し、足利直義の軍勢が「浅原峠」より攻めかけた旨を記すが、これは北の軽部かるべ(現都窪郡清音村)へ越える峠であり、中峠あるいは古城山とよばれていた(備陽国誌)。至徳元年(一三八四)五月一五日の旦那売券(米良文書)の売主は「あさはら」の宮内卿であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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