幕末・明治時代の漢方医学最後の巨頭。文化12年5月13日、信濃(しなの)国筑摩(ちくま)郡栗林(くりばやし)村(長野県松本市島立(しまだち))に生まれる。幼名を直民(なおたみ)、のちに惟常(これつね)と改め、字(あざな)を識此(しきし)、号を栗園(りつえん)、宗伯は通称。15歳のとき中村仲倧(ちゅうそう)(1778―1851)の門に入り、18歳で京都に遊学、中西鷹山(なかにしようざん)(1772―1827)の塾で学んだ。また、吉益(よします)、川越、福井の諸家に出入りし、経書を猪飼敬所(いがいけいしょ)に、史学を頼山陽に学んだ。1836年(天保7)江戸に出て、幕府医官本康宗円(もとやすそうえん)(?―1852)の知遇を得、多紀元堅(たきげんけん)、小島学古(がっこ)(1797―1849)、喜多村栲窓(きたむらこうそう)(1805―1876)らと親交を結び、1861年(文久1)幕府の侍医となり、和宮(かずのみや)、天璋院(てんしょういん)(第13代将軍徳川家定夫人)、第14代将軍徳川家茂(いえもち)などの診治にあたった。1865年フランス公使ロッシュの難病を治療して、その名声は国の内外に響き、また明治維新の際、国事に奔走し、勝海舟や西郷隆盛と折衝して江戸を戦火より救った。1879年(明治12)東宮明宮(はるのみや)(大正天皇)の侍医を拝命、治療にあたり、その危急を救った。著書も多く『傷寒論識』『雑病論識』『橘窓書影(きっそうしょえい)』『先哲医話』など80部200巻に及んだ。
[矢数道明]
幕末・明治前期の漢方医。信州筑摩郡栗林(現,長野県松本市)の儒医の長子として生まれ,初名は直民のち惟常,字の識此と薬室名の勿誤(ぶつこ)薬室は《傷寒論》の桂枝湯条文から,号の栗園は生地にちなむ。高遠の内藤藩中村中倧門に入り医学を学んだのち,京都に上り中西,吉益の諸家について《傷寒論》を研究した。一時郷里で開業していたが1833年(天保4)江戸に出て開業,困窮生活を経て法眼本康宗円の知遇を得,有力医と親交を結んで医学館に出仕,のち大奥侍医となり法眼に叙せられた。維新後は朝廷に召され尚薬,東宮侍医となり,漢方侍医として最後の人となった。著書すこぶる多く80部200巻に及ぶ。
執筆者:宗田 一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
働き手が自分の働きたい時間に合わせて短時間・単発の仕事に就くこと。「スポットワーク」とも呼ばれる。単発の仕事を請け負う働き方「ギグワーク」のうち、雇用契約を結んで働く形態を指す場合が多い。働き手と企...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新