浅田宗伯(読み)アサダソウハク

デジタル大辞泉 「浅田宗伯」の意味・読み・例文・類語

あさだ‐そうはく【浅田宗伯】

[1815~1894] 幕末明治漢方医信濃の人。名は惟常これつね幕府奥医師、維新後は東宮侍医。せき止めの浅田飴あさだあめ創始者

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「浅田宗伯」の意味・読み・例文・類語

あさだ‐そうはく【浅田宗伯】

  1. 幕末、明治の漢方医者。信州長野県)に生まれる。幕府の奥医者となり、維新後、皇太子侍医となる。著に「脉法私言」「皇朝名医伝」など。文化一二~明治二七年(一八一五‐九四

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

日本大百科全書(ニッポニカ) 「浅田宗伯」の意味・わかりやすい解説

浅田宗伯
あさだそうはく
(1815―1894)

幕末・明治時代の漢方医学最後の巨頭。文化12年5月13日、信濃(しなの)国筑摩(ちくま)郡栗林(くりばやし)村(長野県松本市島立(しまだち))に生まれる。幼名を直民(なおたみ)、のちに惟常(これつね)と改め、字(あざな)を識此(しきし)、号を栗園(りつえん)、宗伯は通称。15歳のとき中村仲倧(ちゅうそう)(1778―1851)の門に入り、18歳で京都遊学中西鷹山(なかにしようざん)(1772―1827)の塾で学んだ。また、吉益(よします)、川越、福井の諸家に出入りし、経書を猪飼敬所(いがいけいしょ)に、史学頼山陽に学んだ。1836年(天保7)江戸に出て、幕府医官本康宗円(もとやすそうえん)(?―1852)の知遇を得、多紀元堅(たきげんけん)、小島学古(がっこ)(1797―1849)、喜多村栲窓(きたむらこうそう)(1805―1876)らと親交を結び、1861年(文久1)幕府の侍医となり、和宮(かずのみや)、天璋院(てんしょういん)(第13代将軍徳川家定夫人)、第14代将軍徳川家茂(いえもち)などの診治にあたった。1865年フランス公使ロッシュの難病を治療して、その名声は国の内外に響き、また明治維新の際、国事に奔走し、勝海舟や西郷隆盛と折衝して江戸を戦火より救った。1879年(明治12)東宮明宮(はるのみや)(大正天皇)の侍医を拝命、治療にあたり、その危急を救った。著書も多く『傷寒論識』『雑病論識』『橘窓書影(きっそうしょえい)』『先哲医話』など80部200巻に及んだ。

[矢数道明]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「浅田宗伯」の意味・わかりやすい解説

浅田宗伯 (あさだそうはく)
生没年:1815-94(文化12-明治27)

幕末・明治前期の漢方医。信州筑摩郡栗林(現,長野県松本市)の儒医の長子として生まれ,初名は直民のち惟常,字の識此と薬室名の勿誤(ぶつこ)薬室は《傷寒論》の桂枝湯条文から,号の栗園は生地にちなむ。高遠の内藤藩中村中倧門に入り医学を学んだのち,京都に上り中西,吉益の諸家について《傷寒論》を研究した。一時郷里で開業していたが1833年(天保4)江戸に出て開業,困窮生活を経て法眼本康宗円の知遇を得,有力医と親交を結んで医学館に出仕,のち大奥侍医となり法眼に叙せられた。維新後は朝廷に召され尚薬,東宮侍医となり,漢方侍医として最後の人となった。著書すこぶる多く80部200巻に及ぶ。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「浅田宗伯」の意味・わかりやすい解説

浅田宗伯
あさだそうはく

[生]文化10(1813)/文化12(1815).信濃
[没]1894.3.16. 東京
幕末から明治にかけて活躍した漢方医。名は直民のちに惟常,号が栗園。医学を中村仲そうおよび中西鷹山に,儒学を猪飼敬所に学ぶ。慶応2 (1866) 年,幕府の奥医師となる。明治に入ると漢方医排斥の風潮に抵抗し,皇漢医方維持のために戦った。 1879年には漢方医としては最後の東宮侍医となった。著書は『橘黄年譜』『橘窓書影』『先哲医話』『脈法私言』『皇国名医伝』など数多く,80種 200巻に及ぶといわれる。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「浅田宗伯」の解説

浅田宗伯 あさだ-そうはく

1815-1894 江戸後期-明治時代の医師。
文化12年5月22日生まれ。生地信濃(しなの)(長野県)の高遠藩の中村中倧(ちゅうそう),京都の中西鷹山(ようざん)の塾にまなぶ。江戸にでて開業,のち幕府医官となる。フランス公使ロッシュの病気をなおして名声をあげ,慶応2年奥医師。維新後は東宮侍医をつとめた。明治27年3月16日死去。80歳。名は直民,惟常。字(あざな)は識此。号は栗園。著作に「皇国名医伝」「傷寒論識」など。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「浅田宗伯」の意味・わかりやすい解説

浅田宗伯【あさだそうはく】

幕末・明治の医学者。名は惟常,号は栗園。信濃の人。京都,江戸に遊学,幕府の奥医師となる。明治以降貴顕との交遊多く,東宮侍医になり,漢方医の首領として漢方の衰亡を救うため活動。《皇国名医伝》《傷寒弁要》など著書も多い。

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

367日誕生日大事典 「浅田宗伯」の解説

浅田 宗伯 (あさだ そうはく)

生年月日:1815年5月22日
江戸時代;明治時代の漢方医
1894年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

今日のキーワード

スキマバイト

働き手が自分の働きたい時間に合わせて短時間・単発の仕事に就くこと。「スポットワーク」とも呼ばれる。単発の仕事を請け負う働き方「ギグワーク」のうち、雇用契約を結んで働く形態を指す場合が多い。働き手と企...

スキマバイトの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android