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浅田宗伯 あさだ そうはく

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美術人名辞典の解説

浅田宗伯

幕末・明治の漢方医。信濃生。名は惟常、字は識此、号は栗園、薬室名は勿誤。江戸で医学を修め、幕府の奥医師を務める。のち明治天皇の侍医となる。著書は『皇国名医伝』『脈法私言』等。詩文を能くした。明治27年(1894)歿、81才。

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デジタル大辞泉の解説

あさだ‐そうはく【浅田宗伯】

[1815~1894] 幕末・明治の漢方医。信濃の人。名は惟常(これつね)。幕府の奥医師、維新後は東宮侍医。せき止めの浅田飴(あさだあめ)の創始者。

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百科事典マイペディアの解説

浅田宗伯【あさだそうはく】

幕末・明治の医学者。名は惟常,号は栗園。信濃の人。京都,江戸に遊学,幕府の奥医師となる。明治以降貴顕との交遊多く,東宮侍医になり,漢方医の首領として漢方の衰亡を救うため活動。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

浅田宗伯 あさだ-そうはく

1815-1894 江戸後期-明治時代の医師。
文化12年5月22日生まれ。生地信濃(しなの)(長野県)の高遠藩の中村中倧(ちゅうそう),京都の中西鷹山(ようざん)の塾にまなぶ。江戸にでて開業,のち幕府医官となる。フランス公使ロッシュの病気をなおして名声をあげ,慶応2年奥医師。維新後は東宮侍医をつとめた。明治27年3月16日死去。80歳。名は直民,惟常。字(あざな)は識此。号は栗園。著作に「皇国名医伝」「傷寒論識」など。

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世界大百科事典 第2版の解説

あさだそうはく【浅田宗伯】

1815‐94(文化12‐明治27)
幕末・明治前期の漢方医。信州筑摩郡栗林(現,長野県松本市)の儒医の長子として生まれ,初名は直民のち惟常,字の識此と薬室名の勿誤(ぶつこ)薬室は《傷寒論》の桂枝湯条文から,号の栗園は生地にちなむ。高遠の内藤藩中村中倧門に入り医学を学んだのち,京都に上り中西,吉益の諸家について《傷寒論》を研究した。一時郷里で開業していたが1833年(天保4)江戸に出て開業,困窮生活を経て法眼本康宗円の知遇を得,有力医と親交を結んで医学館に出仕,のち大奥侍医となり法眼に叙せられた。

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大辞林 第三版の解説

あさだそうはく【浅田宗伯】

1814~1894) 漢方医。信濃の生まれ。号、栗園。名は惟常。江戸幕府の奥医師となり、明治になって東宮侍医となる。漢方存続運動に活躍。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

浅田宗伯
あさだそうはく

[生]文化10(1813)/文化12(1815).信濃
[没]1894.3.16. 東京
幕末から明治にかけて活躍した漢方医。名は直民のちに惟常,号が栗園。医学を中村仲そうおよび中西鷹山に,儒学を猪飼敬所に学ぶ。慶応2 (1866) 年,幕府の奥医師となる。明治に入ると漢方医排斥の風潮に抵抗し,皇漢医方維持のために戦った。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

浅田宗伯
あさだそうはく
(1815―1894)

幕末・明治時代漢方医学最後の巨頭。文化12年5月13日、信濃(しなの)国筑摩(ちくま)郡栗林(くりばやし)村(長野県松本市島立(しまだち))に生まれる。幼名を直民(なおたみ)、のちに惟常(これつね)と改め、字(あざな)を識此(しきし)、号を栗園(りつえん)、宗伯は通称。15歳のとき中村仲(ちゅうそう)(1778―1851)の門に入り、18歳で京都に遊学、中西鷹山(なかにしようざん)(1772―1827)の塾で学んだ。また、吉益(よします)、川越、福井の諸家に出入りし、経書を猪飼敬所(いがいけいしょ)に、史学を頼山陽に学んだ。1836年(天保7)江戸に出て、幕府医官本康宗円(もとやすそうえん)(?―1852)の知遇を得、多紀元堅(たきげんけん)、小島学古(がっこ)(1797―1849)、喜多村栲窓(きたむらこうそう)(1805―1876)らと親交を結び、1861年(文久1)幕府の侍医となり、和宮(かずのみや)、天璋院(てんしょういん)(第13代将軍徳川家定夫人)、第14代将軍徳川家茂(いえもち)などの診治にあたった。1865年フランス公使ロッシュの難病を治療して、その名声は国の内外に響き、また明治維新の際、国事に奔走し、勝海舟や西郷隆盛と折衝して江戸を戦火より救った。1879年(明治12)東宮明宮(はるのみや)(大正天皇)の侍医を拝命、治療にあたり、その危急を救った。著書も多く『傷寒論識』『雑病論識』『橘窓書影(きっそうしょえい)』『先哲医話』など80部200巻に及んだ。[矢数道明]

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