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海江田信義 かえだ のぶよし

美術人名辞典の解説

海江田信義

枢密顧問官、子爵、旧鹿児島藩士。有村仁左衛門の長子。海江田伊三次に養はれ武次と称す。黙声、靜山、弧松等の号あり。明治39年(1906)歿、35才。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

海江田信義 かえだ-のぶよし

1832-1906 幕末-明治時代の武士,官僚。
天保(てんぽう)3年2月11日生まれ。薩摩(さつま)鹿児島藩士。江戸で藤田東湖にまなぶ。安政大獄に際し,僧月照をまもり鹿児島へのがれた。文久2年武蔵(むさし)生麦村でイギリス人を殺傷。慶応4年(1868)新政府軍参謀として江戸城をうけとる。維新後は奈良県知事,貴族院議員。明治39年10月27日死去。75歳。本姓は有村。通称は俊斎,武次。号は黙声,静山。

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朝日日本歴史人物事典の解説

海江田信義

没年:明治39.10.27(1906)
生年:天保3.2.11(1832.3.13)
幕末の薩摩(鹿児島)藩士,明治政府の官僚。有村仁左衛門の長子。雄助,次左衛門の兄。11歳の年,茶坊主となり俊斎を名乗る。安政5(1858)年,京にあって西郷隆盛らと井伊幕政打倒を計画するが挫折,月照を伴って帰藩。翌6年11月薩摩藩尊攘派ともいうべき誠(精)忠組に参加。文久1(1861)年12月日下部伊三次の養子となり,この家の旧姓海江田を姓とす。翌2年島津久光の率兵上洛に随従,有馬新七の挙兵計画の中止を図る。さらに随従し江戸へ,その帰路の生麦(神奈川県鶴見区)で,奈良原喜左衛門に切られた英人リチャードソンに止めを刺した(生麦事件)。翌年7月薩英戦争に参軍,奈良原と英艦奪取を企てるも失敗。越えて明治1(1868)年の戊辰戦争下では東海道先鋒総督府参謀として江戸へ,大村益次郎との戦略上の意見対立から辞意を表明。刑法官,刑部大丞,弾正大忠。折から大村益次郎暗殺事件があり,これの犯人処刑に異議を申し立て同3年3月謹慎に処せられ位記返上(粟田口止刑事件)。のち許され奈良県知事,元老院議官,枢密顧問官を歴任。

(井上勲)

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世界大百科事典 第2版の解説

かえだのぶよし【海江田信義】

1832‐1906(天保3‐明治39)
幕末・明治の政治家。薩摩藩士有村仁左衛門の長男で,井伊直弼暗殺計画に加わった雄助・次左衛門兄弟の兄。はじめ茶道出仕,俊斎と称する。弟の死後その義理で日下部家を継ぎ,その旧姓海江田を名のった。通称は武次。早くから西郷隆盛らの運動に関係,1868年(明治1)の戊辰戦争では東海道先鋒総督参謀として江戸へ進駐したが,やがて主流からはずれ,元老院議官,枢密顧問官に終わった。【松浦 玲】

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