海江田信義(読み)カエダ ノブヨシ

新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「海江田信義」の解説

海江田 信義
カエダ ノブヨシ


肩書
枢密顧問官

旧名・旧姓
旧姓=有村

生年月日
天保3年2月11日(1832年)

出身地
薩摩国(鹿児島県)

経歴
薩摩藩士。11歳の時島津斉興茶道出仕、茶坊主となり俊斎を名のる。嘉永5年江戸に出て藤田東湖に師事し尊攘運動に従事。僧月照、西郷隆盛、大久保利通らと国事に奔走し、安政5年の大獄後僧月照と鹿児島まで逃れた。藩内の誠忠組で活躍、文久2年京都の寺田屋事件、江戸からの帰途生麦事件、薩英戦争参加などを経て、明治元年戊辰の役に東海道先鋒総督参謀となり、江戸城受取りに功労。維新後新政府の弾正大忠、明治3年奈良県令、14年元老院議官。18年子爵。20年渡欧し、ウィーンシュタイン法学を師事。帰国後23年貴院議員、錦鶏間祗候、24年枢密顧問官。著書に「実歴談」。

没年月日
明治39年10月27日

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

朝日日本歴史人物事典 「海江田信義」の解説

海江田信義

没年:明治39.10.27(1906)
生年:天保3.2.11(1832.3.13)
幕末の薩摩(鹿児島)藩士,明治政府の官僚。有村仁左衛門の長子。雄助,次左衛門の兄。11歳の年,茶坊主となり俊斎を名乗る。安政5(1858)年,京にあって西郷隆盛らと井伊幕政打倒を計画するが挫折,月照を伴って帰藩。翌6年11月薩摩藩尊攘派ともいうべき誠(精)忠組に参加。文久1(1861)年12月日下部伊三次の養子となり,この家の旧姓海江田を姓とす。翌2年島津久光の率兵上洛に随従,有馬新七の挙兵計画の中止を図る。さらに随従し江戸へ,その帰路生麦(神奈川県鶴見区)で,奈良原喜左衛門に切られた英人リチャードソンに止めを刺した(生麦事件)。翌年7月薩英戦争に参軍,奈良原と英艦奪取を企てるも失敗。越えて明治1(1868)年の戊辰戦争下では東海道先鋒総督府参謀として江戸へ,大村益次郎との戦略上の意見対立から辞意を表明。刑法官,刑部大丞,弾正大忠。折から大村益次郎暗殺事件があり,これの犯人処刑に異議を申し立て同3年3月謹慎に処せられ位記返上(粟田口止刑事件)。のち許され奈良県知事,元老院議官,枢密顧問官を歴任。

(井上勲)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「海江田信義」の意味・わかりやすい解説

海江田信義 (かえだのぶよし)
生没年:1832-1906(天保3-明治39)

幕末・明治の政治家。薩摩藩士有村仁左衛門の長男で,井伊直弼暗殺計画に加わった雄助・次左衛門兄弟の兄。はじめ茶道出仕,俊斎と称する。弟の死後その義理で日下部家を継ぎ,その旧姓海江田を名のった。通称は武次。早くから西郷隆盛らの運動に関係,1868年(明治1)の戊辰戦争では東海道先鋒総督参謀として江戸へ進駐したが,やがて主流からはずれ,元老院議官,枢密顧問官に終わった。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「海江田信義」の解説

海江田信義 かえだ-のぶよし

1832-1906 幕末-明治時代の武士,官僚。
天保(てんぽう)3年2月11日生まれ。薩摩(さつま)鹿児島藩士。江戸で藤田東湖にまなぶ。安政の大獄に際し,僧月照をまもり鹿児島へのがれた。文久2年武蔵(むさし)生麦村でイギリス人を殺傷。慶応4年(1868)新政府軍参謀として江戸城をうけとる。維新後は奈良県知事,貴族院議員。明治39年10月27日死去。75歳。本姓は有村。通称は俊斎,武次。号は黙声,静山。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android