改訂新版 世界大百科事典 「清代美術」の意味・わかりやすい解説
清代美術 (しんだいびじゅつ)
数千年にわたって続いた中国王朝制度の最後に登場した清朝は,美術史のうえでも終末的な役割を果たして歴史の幕を閉じたといえる。清朝滅亡以後,中華民国や現在の中華人民共和国では再び同じ構造で伝統を継承し,追求することがもはやありえないことからも,清朝の美術は,長いあいだ展開を続けてきた古典主義の終焉ともいえる段階にあたり,その歴史にかつてない大きな時代区分を与えている。
清朝300年の美術の消長は,王朝の文運,国家権力の推移と歩みを一にしているといえよう。清初から康煕・雍正年間(1662-1735)の上昇期,乾隆年間(1736-95)の極盛期を頂点として衰退の一途をたどり,アヘン戦争(1840-42)以後,夕陽の残光にも似た華やかな彩りをわずかにそえて王朝の最後を飾っている。また清代美術の特色は,他の学術文化とも共通する性質を示している。実証を尊び,実践躬行の学問を重んじた気風と同じく,美術でも表現の論理的な明晰を第一義とし,宮廷の嗜好を反映して気品に満ちた,彩色の美しく理知的な造型感覚が要求され,一部には西洋文物の影響が顕著に認められる。
絵画
江蘇一帯で活躍していた明末の画家は,董其昌の提言した〈模倣を通してしか新たな創造はありえない〉とする指標とは裏腹に,董其昌画の特質を分解し発展させる一方,董其昌画に欠けていた呉派文人画特有の豊かな詩情表現に成功した。理論には忠実ではなかったが,実作では董其昌画の末梢的な要素を増殖していったといえるであろう。こうした傾向を邪道のみ栄える画道の衰微の極と断定し,危機とみなしてその作品をまっこうから否定して,董其昌の理論そのものを信奉し再現する芸術運動を起こしたのが王時敏である。明朝滅亡後,郷里の江蘇太倉に隠居していた王時敏は,同郷の友人王鑑を好伴侶とし,孫の王原祁(おうげんき),王鑑の発見した王翬(おうき),王翬の同郷の友人呉歴,親友の惲寿平(うんじゆへい)(四王呉惲)ら清初の6大家と呼ばれる地縁血縁の強固な間柄で結ばれた勢力を結集して運動を展開した。彼らは中国絵画史の主流中の主流,南北二派論にいう嫡系の正統派を自称して,伝統を倣古,古画をまねるという形式で継承し実践してみせた。倣古の知識と古画を再現する能力に関して,彼ら6人は断然他を圧していた。
清朝では順治帝はじめ好画の皇帝が多く,なかでも康煕・乾隆の2帝は画人たちを地方官に推薦させたり,数度の南巡のたびに現地で応募させたりして,宮廷作画機構である画院の充実に心がけた。また明朝滅亡をはさんだ1640年代から末年にかけて,江蘇各地に教会を建てて布教に努めていたフランスのイエズス会宣教師団は,権力による援助を求めて首都北京と南京とに集まり,天文学,建築,機械などの学術とともに遠近法や明暗法などの西洋画法を伝授した。この結果,宮廷画院画家にとって西洋画の学習は古画の模写と並んで重要な課目となった。画院の組織は宋代や明代のような官職の授与によって行われず,蔣廷錫(しようていしやく)(1669-1732),鄒一桂(すういつけい)(1686-1772),銭維城(1702-72),董邦達(1699-1769),張若靄(ちようじやくあい)(1713-46)など皇帝側近の高級官僚の一群と,在野から集められた黄鼎(こうてい)(1660-1730),金廷標ら職業画工の一群の二つから成り,後者の競争の激烈を極めたことが伝えられている。画院の様式の特色は明晰性にあった。すべてのモティーフは明確な輪郭をもって描き出され,あいまいな個所はまったくなく,すべて清新で知的な画面が要求された。イタリア人カスティリオーネ(中国名は郎世寧),ロシア人シクルプス(中国名は艾啓蒙(がいけいもう)。1708-80)らは画院に奉職した西洋人で,文字どおり皇帝の手足として馬,珍禽異獣,戦争,皇帝后妃の容姿などを写して画院本来の使命を果たした。
四王呉惲の後,安定した市場を求めて,康煕年間(1662-1722)南京に集まった画家を金陵八家(龔賢(きようけん),高岑(こうしん),樊圻(はんき),呉宏,鄒喆(すうてつ),胡慥(こぞう),謝蓀(しやそん),葉欣(しようきん))とよび,乾隆年間揚州に流寓,あるいは往来した画家群を揚州八怪(金農,黄慎,李方膺,高翔,高鳳翰,汪士慎,閔貞(びんてい),華嵒(かがん),鄭燮(ていしよう),李鱓(りぜん),羅聘(らへい)ら)とよぶ。前者は多く科挙という文官試験に失敗した末の転身であり,文学結社に出入りした読書人によって構成され,宮廷画院とは別に西洋の影響を受けたとみなされる。後者は塩商たちの富裕なパトロンに支えられ,科挙の失敗者,昇進の道の絶たれた地方官僚,まったくの職業画家といった雑多な階層によって構成され,四王や画院とは完全に対立し,正統的な伝統とはおよそ無縁で,いかにも素人好きのする,わかりやすい画風で人気を集めた。苦悩や絶望すらも自己の享楽としたオプティミズムと国力の最隆盛期を迎えた商業都市の粋な美しさ,既成の画法にとらわれぬ奔放で野生的な筆描が彼らの特色である。また康煕年間は八大山人,石濤(せきとう),傅山(ふざん),徐枋(じよぼう)など前王朝の遺民が画家として活躍した時期でもある。なかでも八大山人と石濤の2人は明朝宗室の末裔にあたり,共に僧籍に入ったが,既成の権威を無視した独自の表現により,亡国の憂憤を画面にぶつけることで,世俗を超越したきわめて独創的な画風を展開した。
18世紀以後の画家の採択した道は,写し崩れの著しい宋元山水画の典型を追い続けるか,典型を絶対視しない花鳥画の世界に進むか,二つに一つしかなかった。揚州八怪の選んだ道は後者であった。嘉慶帝以後,画院の急速な衰退と個性的な在野の画家の滅失は,絵画史の内容を極度に貧しいものにした。清朝末期に揚州八怪を模倣する花鳥画家が上海一帯を中心として華やかに登場した。日本でも名高い呉昌碩(ごしようせき),斉璜(せいこう)(白石)はこの海上派の末流とみなされる。
書
清代前半期,乾隆ころまでは,明代中期以来流行した法帖をよりどころとする帖学派が盛行し,後半期嘉慶(1796-1820)以後は主として北朝の石刻文字を学ぶ碑学派の活躍が注目される。まず順治・康煕・雍正年間を帖学前期とし,王鐸と傅山2人をその代表とする。前者は清朝に出仕して2王朝の臣となり,後者は出仕の意を絶った遺民として,転換期における読書人の生き方をも代表する。両者とも正統な法帖を学んだ後,正法を超えて豪快で自由奔放な草書を長条幅に作って,後世日本にまで多くの影響を与えた。またこの時期には初め董其昌の書風が流行し,後に趙孟頫(ちようもうふ)が愛好された。次に乾隆年間を帖学後期とする。康煕帝勅撰による歴代書画の文献の集大成した《佩文斎(はいぶんさい)書画譜》,乾隆帝勅撰の内府所蔵の名跡を選んで上石した《三希堂法帖》《淳化閣帖》に考証,釈文を加えた《欽定重刻淳化閣帖》などにより帖学の学問的基礎が成立し,帖学の隆盛期を迎えるに至った。張照,王文治,梁同書らがこの時期の代表的書人であり,なかでも劉墉(りゆうよう)は渾厚な風格を備えた名家として尊ばれる。
嘉慶年間を碑学前期とする。乾隆年間に準備された古法の学的探求は金石学として実を結ぶこととなる。《寰宇(かんう)訪碑録》《金石萃篇(すいへん)》《潜研堂末尾》《説文解字注》など質量ともに最高の水準を示す業績が送り出され,さらに書作の面にも応用されるに至った。鄧石如,伊秉綬(いへいじゆ),陳鴻寿らは篆隷(てんれい)の書に金石の気をとり入れた新風をうちたてた。道光年間以後を碑学後期とする。内憂外患の国情を背景に類書などの文化事業には特筆すべきものはないが,書人としては多くの名家が現れて,絢爛たる書風を競った。阮元,包世臣,呉煕載(1799-1870),何紹基,趙之謙らがそれである。この時期に至って帖学と碑学とを兼ねて学び,金文,石鼓文,さらにさかのぼって甲骨文字までも消化しようとする書家が出て,書壇はかつてない複雑な状況を呈したが,やがて退廃的な書風が現れて衰亡の一途をたどった。
陶磁器
陶芸の分野でも清朝は総合の時期とみなされる。最盛期は康煕・雍正・乾隆の3代で,初期には明代後半期の自由奔放な空気があったが,1680年(康煕19)江西の景徳鎮に官窯の御器厰(ぎよきしよう)が再興されるや古今の技法を集大成し,新しい技法を開発して理知的で精密な様式が完成された。乾隆中期以降,御器厰の生産はやや鈍くなったが,宋の官窯青磁,明の成化期の染付,豆彩,赤絵などを模した優れた作品を生み出した。釉の色調,質感の表現によって,玉石木竹,金属,漆などの模作も行われるほど御器厰の釉法は進歩をとげた。ブラック・ホーソンと呼ばれて珍重される黒黄緑の地に文様を浮きたたせる素三彩もその一つである。また粉彩は琺瑯(ほうろう)彩・洋彩・軟彩と呼ばれて,清朝独自の技法とみなされており,ヨーロッパの影響によるといわれ,西欧的な嗜好を反映するものが少なくない。粉彩は色彩を重ねることができたために上絵付に絵画的,写実的表現が可能となり一大変革がもたらされた。清代の陶磁器はヨーロッパに多く輸出されて,大きな影響を与えた。
建築
元代に始められ,明代初期に造営された北京の紫禁城は,清朝に至っていっそう整備された。紫禁城は政治儀礼を目的とした外朝と皇帝個人の居住地域,内廷との総計22万坪から成る宮殿である。また内城南郊の天壇は三重円形の石壇と三重屋根の祈年殿とを中心とする礼制の遺構で,天を祭り豊作を祈る壮麗な建築である。宗教建築としてはこのほかにラマ教,イスラム教の建築に発展がみられ,チベット,内モンゴルに遺構が伝えられる。河北省承徳にある外八廟は,チベットのラサのダライ・ラマのポタラ宮を模した離宮として名高い。北京の三海,円明園,頤和(いわ)園は雍正・乾隆帝らによる国費を傾けて造営された大規模な庭園である。
執筆者:古原 宏伸
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