デジタル大辞泉
「渋沢敬三」の意味・読み・例文・類語
しぶさわ‐けいぞう〔しぶさはケイザウ〕【渋沢敬三】
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しぶさわ‐けいぞう【渋沢敬三】
- 実業家。東京出身。栄一の孫。東京帝国大学経済学部卒。第一銀行副頭取、日本銀行総裁を歴任。第二次世界大戦後は、幣原(しではら)内閣の蔵相、国際電信電話社長、文化放送会長を歴任。また、常民文化研究所を主宰するなど、民俗学者、生物学者としても有名。「民具蒐集調査要目」を編集。明治二九~昭和三八年(一八九六‐一九六三)
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渋沢 敬三
シブサワ ケイゾウ
- 肩書
- 蔵相,日銀総裁,日本民族学協会会長
- 別名
- 号=祭魚洞(サイギョドウ)
- 生年月日
- 明治29年8月25日
- 出生地
- 東京市深川(現・東京都江東区)
- 学歴
- 東京帝大経済学部〔大正10年〕卒
- 学位
- 名誉文学博士(東洋大学)〔昭和38年〕
- 経歴
- 大正10年横浜正金銀行に入行。東京、ロンドン各支店に勤務。14年第一銀行に転じ、15年取締役、昭和7年常務、16年副頭取。この間、6年東京貯蓄銀行会長。17年蔵相に請われて日銀副総裁に就任、19年第16代総裁に就いた。戦後20年幣原内閣の蔵相になったが、21年公職追放。26年に解除。以後、国際電信電話会社初代社長、IOC国内委員会議長、文化放送会長、日本国際商業会議所会頭、日本航空相談役、金融制度調査会会長などを歴任し、財界の世話役をつとめた。渋沢栄一の孫で、東京・三田の豪邸を率先、財産税で物納するなど、育ちの良い財界大物ぶりを発揮した。また生物学・民俗学への造詣も深く、自宅に“アチック・ミューゼアム・ソサエティ(のちの常民文化研究所)”を創立、多くの民俗学者を輩出させ、自らも日本民族学協会会長、日本人類学会会長をつとめた。昭和6年襲爵(子爵)。著書に「豆州内浦漁民史料」(全2巻)「祭魚洞雑録」「日本魚名集覧」「絵巻による日本常民生活絵引」(全5巻 編著)「渋沢敬三著作集」(全5巻 平凡社)などがある。
- 受賞
- 農学賞〔大正15年〕「豆州内浦漁民史料」 朝日文化賞〔昭和37年〕 広告功労者顕彰〔昭和41年〕
- 趣味
- 釣り
- 没年月日
- 昭和38年10月25日
- 家族
- 祖父=渋沢 栄一(実業家)
出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報
渋沢 敬三
シブサワ ケイゾウ
昭和期の実業家,財界人,民俗学者 日銀総裁;蔵相;日本民族学協会会長。
- 生年
- 明治29(1896)年8月25日
- 没年
- 昭和38(1963)年10月25日
- 出生地
- 東京市深川(現・東京都江東区)
- 別名
- 号=祭魚洞(サイギョドウ)
- 学歴〔年〕
- 東京帝大経済学部〔大正10年〕卒
- 学位〔年〕
- 名誉文学博士(東洋大学)〔昭和38年〕
- 主な受賞名〔年〕
- 農学賞〔大正15年〕「豆州内浦漁民史料」,朝日文化賞〔昭和37年〕,広告功労者顕彰〔昭和41年〕
- 経歴
- 大正10年横浜正金銀行に入行。東京、ロンドン各支店に勤務。14年第一銀行に転じ、15年取締役、昭和7年常務、16年副頭取。この間、6年東京貯蓄銀行会長。17年蔵相に請われて日銀副総裁に就任、19年第16代総裁に就いた。戦後20年幣原内閣の蔵相になったが、21年公職追放。26年に解除。以後、国際電信電話会社初代社長、IOC国内委員会議長、文化放送会長、日本国際商業会議所会頭、日本航空相談役、金融制度調査会会長などを歴任し、財界の世話役を務めた。渋沢栄一の孫で、東京・三田の豪邸を率先、財産税で物納するなど、育ちの良い財界大物ぶりを発揮した。また生物学・民俗学への造詣も深く、自宅に“アチック・ミューゼアム・ソサエティ(のちの常民文化研究所)”を創立、多くの民俗学者を輩出させ、自らも日本民族学協会会長、日本人類学会会長を務めた。昭和6年襲爵(子爵)。著書に「豆州内浦漁民史料」(全2巻)「祭魚洞雑録」「日本魚名集覧」「絵巻による日本常民生活絵引」(全5巻 編著)「渋沢敬三著作集」(全5巻 平凡社)などがある。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
渋沢敬三 (しぶさわけいぞう)
生没年:1896-1963(明治29-昭和38)
近代の実業家。東京の生れで,渋沢栄一の孫。東京帝国大学経済学部卒業後,横浜正金銀行に入るが,のちに第一銀行に移る。1944年には日本銀行総裁に就任し,第2次大戦後は幣原(しではら)喜重郎内閣の大蔵大臣となるなど経済界の指導者として活躍した。一方,大学在学中から穂積陳重,石黒忠篤,柳田国男などの影響を受けて,文化の基層を,支配階級を除いたごく普通の庶民すなわち常民の文化に求め,とくに漁業関係の社会経済史料に注目した。1921年にはアチック・ミューゼアム・ソサエティ,25年にはアチック・ミューゼアム(のち日本常民文化研究所と改称)を自邸の物置の2階に開設し,同好の士と民具や民俗資料の研究ならびに収集保存をはじめた。32年には祭魚洞文庫,漁業史研究室を開設し,漁業水産関係の文献の収集,漁業史の研究につとめるなど民間研究所の主宰者として,既存のアカデミズムの枠にとらわれない自由な発想のもとに,ほとんど官学の手をつけない分野を対象とした民俗学,民具学や漁業史の領域で先駆的役割を果たした。《豆州内浦漁民史料》《日本魚名集覧》《絵巻物による日本常民生活絵引》などのすぐれた編著を多く残した。この間,多くの歴史家や民俗学者を育てたほか,九学会連合調査などの共同研究を支援,また文部省史料館,水産庁水産資料館,国立民族学博物館の設立に貢献した。
執筆者:山口 徹
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渋沢敬三【しぶさわけいぞう】
実業家。渋沢栄一の孫。東京生れ。東大経済学部卒。横浜正金銀行取締役,第一銀行副頭取を経て1944年日本銀行総裁となり,第2次大戦後は幣原内閣の大蔵大臣,のち財界世話役として活躍。また民俗研究家としても知られ,1925年にはアチック・ミューゼアム(のち日本常民文化研究所と改称)を,1932年には祭魚洞文庫・漁業史研究室を開設し,資料の収集と保存ならびに研究に努め,民俗学,民具学,漁業・水産史研究の分野で先駆的役割を果たした。著作集5巻がある。
→関連項目宮本常一
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渋沢敬三
しぶさわけいぞう
[生]1896.8.25. 東京
[没]1963.10.25.
実業家,政治家,民俗学研究者。渋沢栄一の孫,子爵渋沢篤二の長男として生れる。 1921年東京帝国大学経済学部卒業。横浜正金銀行に入り,また,同 1921年アチック・ミューゼアム (屋根裏博物館) を自宅に開設して,郷土玩具の収集と調査を開始。 1926年祖父の創業した第一銀行に移り,1942年日本銀行副総裁に転じ,1944年総裁に就任。 1945年幣原内閣の蔵相となり,第2次世界大戦直後のインフレ対策に努めた。公職追放を受けるが,1951年解除後は国際電信電話社長など財界で活躍。一方戦前からの民俗学・民族学研究も精力的に続け,広くその研究成果を発表し,日本民族学協会 (現在の渋沢民族学振興基金および日本文化人類学会) を興して会長をつとめ,さらに戦後は幅広い人文科学の学際的協業の必要性を説いて六学会連合 (現九学会連合) を組織した。収集された民具の多くは,現在国立民族学博物館に収蔵されている。主著『豆州内浦漁民史料』『日本魚名集覧』『明治文化史』など。
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渋沢敬三
しぶさわけいぞう
(1896―1963)
昭和期の実業家。渋沢栄一の孫として東京に生まれる。東京帝国大学を卒業し、横浜正金銀行に勤務したが、1925年(大正14)には祖父の創設した第一銀行に取締役として入り、41年(昭和16)副頭取(とうどり)に就任した。42年日本銀行に転じて副総裁、総裁を務め、敗戦後の45年(昭和20)10月には幣原(しではら)内閣の蔵相となり、戦後インフレの収束にあたった。公職追放を受けたが、解除後は国際電信電話(現在はKDDI)社長、文化放送会長などを歴任するとともに、財界の世話役として活躍した。業務のかたわら、少年時代から関心をもっていた生物学や民俗学の研究を続け、自邸に常民文化研究所を設け、また多くの研究者を援助した。日本民族学協会や人類学会の会長をも務めた。
[杉山和雄]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
渋沢敬三 しぶさわ-けいぞう
1896-1963 昭和時代の実業家。
明治29年8月25日生まれ。渋沢栄一の孫。第一銀行副頭取などをへて,昭和19年日銀総裁。20年幣原内閣の蔵相となり,戦後財政の処理にあたる。公職追放解除後,国際電信電話社長などをつとめ,財界で活躍。また,アチック-ミューゼアム(のち日本常民文化研究所)を主宰し,おおくの民俗学者をそだてた。昭和38年10月25日死去。67歳。東京出身。東京帝大卒。編著に「日本魚名集覧」など。
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渋沢 敬三 (しぶさわ けいぞう)
生年月日:1896年8月25日
昭和時代の実業家;財界人。日銀総裁;日本民族学協会会長
1963年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の渋沢敬三の言及
【日本常民文化研究所】より
…1925年[渋沢敬三]により設立された,民具・民俗資料の収集・研究,漁業・水産史の研究を中心とした民間研究所。初め,渋沢邸(東京深川)の物置の2階に生物の標本,郷土玩具などの民具を集め,同好の士と研究をはじめたことから,アチック・ミューゼアム(屋根裏博物館)と名づけられた。…
【民具】より
…人々が生活の必要から製作・使用してきた伝統的な器具・造形物の総称。古くは土俗品,民俗品などと呼ばれていたが,1933‐34年ごろ[渋沢敬三]によって〈民具〉という言葉が使いはじめられ,当初は渋沢敬三の主宰するアチック・ミューゼアム(のち[日本常民文化研究所]と改称)の同人たちのあいだにとどまっていたが,今日ではひろく学術用語として学界・一般に定着している。アチック・ミューゼアムの《民具蒐集調査要目》(1936刊)において民具を〈我々の同胞が日常生活の必要から技術的に作り出した身辺卑近の道具〉と定義され,その定義が今日も日本における民具研究の根幹をなしている。…
※「渋沢敬三」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」