源経信(読み)ミナモトノツネノブ

デジタル大辞泉 「源経信」の意味・読み・例文・類語

みなもと‐の‐つねのぶ【源経信】

[1016~1097]平安後期公卿歌人俊頼の父。桂大納言そち大納言とよばれる。博識多芸で、詩歌管弦に長じ、藤原公任きんとうと並んで三舟さんしゅうの才と称された。家集「大納言経信集」、歌論書「難後拾遺」、日記帥記」。

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精選版 日本国語大辞典 「源経信」の意味・読み・例文・類語

みなもと‐の‐つねのぶ【源経信】

  1. 平安後期の公家、歌人。宇多源氏。民部卿道方の子、俊頼の父。博識多芸の人で、藤原公任とともに詩歌管弦の三船に乗りうる才を称された。著に「大納言経信集」「難後拾遺」、日記「帥記」がある。長和五~承徳元年(一〇一六‐九七

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「源経信」の意味・わかりやすい解説

源経信
みなもとのつねのぶ
(1016―1097)

平安時代の歌人、漢詩人。正二位民部卿(きょう)道方の六男、母は播磨守(はりまのかみ)源国盛の女(むすめ)で歌人。歌人俊頼(としより)の父。廷臣として六朝に仕え、1094年(嘉保1)正(しょう)二位大納言(だいなごん)に大宰権帥(だざいのごんのそち)を兼ねたが、1097年(承徳1)閏(うるう)正月6日任地に没した。82歳。『十訓抄(じっきんしょう)』『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』は、三船(さんせん)(詩、歌、管絃(かんげん))の才を賛美する。詩文は、『本朝無題詩』『中右記部類紙背漢詩集』に25首の詩、『本朝続文粋(もんずい)』『朝野群載』『本朝文集』に4編の文章、家記『帥記(そっき)』を残し、和歌は、『後拾遺集』以下の勅撰(ちょくせん)集に85首、家集『大納言経信集』を残し、『後拾遺集』を批判した『難後拾遺』を著す。藤原公任(きんとう)や能因(のういん)法師、和歌六人党の歌人たちの理念や方法を継承して、中世的な晴の歌(宮廷詩)の理論と詠法を完成させた歌人として和歌史上注目されている。

[上野 理]

『上野理著『後拾遺集前後』(1976・笠間書院)』『金原理著『源経信』(『中古文学と漢文学Ⅱ』所収・1987・汲古書院)』


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改訂新版 世界大百科事典 「源経信」の意味・わかりやすい解説

源経信 (みなもとのつねのぶ)
生没年:1016-97(長和5-承徳1)

平安後期の歌人,文人。別称は帥大納言,桂大納言。民部卿道方の子。大納言から大宰権帥となり,大宰府で没した。漢詩文琵琶にも秀でる多才の人として当代歌壇に重きをなし,《高陽院殿七番和歌合》などの歌合の判者をつとめた。和歌のあり方として典雅な声調美と情趣ある趣向を求め,歌作は客観的叙景歌の観照によいものがある。藤原通俊の撰進した《後拾遺和歌集》を低く評価し,《難後拾遺》を書いて論難した。家集に他撰の《大納言経信集》,日記に漢文体の《帥記(そちき)》がある。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「源経信」の意味・わかりやすい解説

源経信
みなもとのつねのぶ

[生]長和5(1016)
[没]承徳1(1097).閏1.6. 大宰府
平安時代中期の公卿,歌人。道方の子で,俊頼の父。正二位権大納言にいたり,晩年に大宰権帥に就任。その博識多才は藤原公任 (きんとう) と並称され,当時の歌壇の権威であったが,『後拾遺和歌集』の撰者になることができなかったので,『難後拾遺』 (1097) を書いて批判した。漢文日記の『帥記』も残している。家集『経信集』があり,『後拾遺和歌集』以下の勅撰集に約 85首入集。母も三十六歌仙の源信明 (さねあきら) や公忠 (きんただ) の血筋を受けた歌人で,『経信母集』という小家集がある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「源経信」の解説

源経信 みなもとの-つねのぶ

1016-1097 平安時代中期-後期の公卿(くぎょう)。
長和5年生まれ。宇多源氏。治暦(じりゃく)3年(1067)参議。のち大納言,正二位にいたる。桂流琵琶(びわ)の祖で,詩歌にすぐれ,法令にも通じた。大宰権帥(だざいのごんのそち)となり,永長2年閏(うるう)1月6日任地で死去。82歳。桂大納言,帥大納言とよばれる。日記に「帥記」,家集に「大納言経信卿集」,歌論書に「難後拾遺」。
【格言など】夕されば門田の稲葉おとづれて葦のまろ屋に秋風ぞ吹く(「小倉百人一首」)

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世界大百科事典(旧版)内の源経信の言及

【歌合】より

…《十巻本歌合》と通称される。近世以来《伝宗尊(むねたか)親王筆歌合巻》と呼ばれていたが,その成立ははるかに古く,関白藤原頼通(よりみち)が主宰し,源経信が監修した史上初の歌合証本集成事業であることが,1938年(昭和13)近衛家文書の中からその総目録が発見されるにおよんで判明した。20巻本の《類聚歌合》の全貌が解明されたのも同じ時の発見による。…

【大鏡】より

…作者不詳。近代以前に藤原為業,同能信,近代になっても,源経信,同俊明,同俊房らを作者に擬する諸説が出されたが,いずれも,これほどのものを書く能力をもつ人物はだれか,というところからの推測である。書中に,〈今年,万寿二年乙丑(きのとうし)とこそは申すめれ〉の文があり,作中人物の官位などもよく合っているので,久しく1025年(万寿2)成立と信じられていたが,ごく少数の点でくいちがいがあり,万寿2年は作者のフィクションの設定と見られるようになっている。…

【後拾遺和歌集】より

…伝統的な発想や表現をうけながら,新しい言葉を機知的に用いようとする新風への意欲がみられる。通俊以上に撰者の資格があると評された当代の代表歌人源経信(つねのぶ)は,勅撰集に対するはじめての批判である《難後拾遺》を書いて反駁し,やすきについて的確な表現の乏しくなったことを非難した。【藤岡 忠美】。…

【帥記】より

…大納言兼大宰権帥源経信の日記。記名は〈大宰権帥〉にもとづくが,〈帥〉の唐名〈都督〉によって《都記》ともいい,また《経信卿記》と称する。…

【藤原通俊】より

…1086年(応徳3)白河天皇の勅命により《後拾遺和歌集》を撰集して奏覧した。当時の歌界に重きをなした源経信,大江匡房をさしおいての撰者任命は,天皇の近臣ゆえのにおいもあって非難を浴び,源経信《難後拾遺》によって通俊の撰集は低く評価された。経信への答えは《後拾遺問答》にうかがわれるが,通俊の立場は機知的なおもしろさを志向する新風の主張にあって,経信の求める格調の高さと異なるものであった。…

※「源経信」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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