瀬島龍三(読み)せじまりゅうぞう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「瀬島龍三」の意味・わかりやすい解説

瀬島龍三
せじまりゅうぞう
(1911―2007)

経営者、財界人。富山県西砺波(となみ)郡松沢村(現、小矢部(おやべ)市)で農家の三男として生まれる。1928年(昭和3)東京陸軍幼年学校卒業、陸軍士官学校予科を経て、同校本科に進み、1932年に歩兵科を首席で卒業した。富山の歩兵第三五連隊に赴任、陸軍歩兵少尉となる。1935年第一機関銃中隊長として満州(中国東北)に出征、その直前に松尾清子と結婚した。満州駐屯中に二・二六事件が発生、岳父松尾伝蔵が岡田啓介総理大臣と誤認されて、反乱将校に殺害されている。1936年陸軍大学校入学、1938年卒業したが、在学中に歩兵大尉に昇進。1939年満州駐屯の第四師団参謀につくが、同年中に参謀本部作戦課に配属となり、東京の大本営に勤務した。1941年には日米開戦における命令書を起案している。戦時中はガダルカナル島撤収作戦など多くの作戦立案に関与した。1945年7月、終戦直前に関東軍参謀として満州におもむき、作戦主任、中佐で終戦を迎えた。

 終戦後は1956年までの11年間シベリアのババロフスクに抑留されたが、その間に1946~1948年、極東国際軍事裁判証人として出廷した。シベリアから帰国後、1957年に伊藤忠商事入社、航空機部に配属された。1959年機械第三部長、1961年業務部長に就任、伊藤忠を繊維中心の商社から重化学工業に重点を置いた総合商社への転換を進めた。1963年常務、1968年専務となり、「いすゞ・GM提携」などを手がけた。1972年副社長のときに、いち早く対中国正常貿易に踏み切り、また安宅(あたか)産業を合併した。1978年から1981年まで会長を勤め、のち相談役、特別顧問となり、2000年(平成12)に伊藤忠を退社した。

 一方、1978年日本商工会議所特別顧問、東京商工会議所副会頭となり、以後、財界活動を活発に行うようになった。さらに1981年には中曽根康弘行政管理庁長官から依頼を受け、臨時行政調査会(臨調)の委員につき、会長土光敏夫(どこうとしお)のもとで参謀役として働き、「臨調の官房長官」と称された。臨調は、三公社(国鉄、電電公社、専売公社)の民営化を実現させた。その後は臨時行政改革推進審議会、臨時教育審議会など多くの委員を務めた。また、1982年に中曽根康弘首相の要請により、特使として大韓民国(韓国)を訪れるなど、日韓関係正常化にも努力した。

 瀬島は幅広い人脈と、事物を総合的にとらえる考察力によって、ときの内閣の相談役を務めるなど、政治にも大きな影響力を及ぼした。山崎豊子の小説『不毛地帯』の主人公壱岐正(いきただし)のモデルといわれる。

[編集部]

『東京新聞・戦後50年取材班編『元大本営参謀の太平洋戦争――瀬島竜三インタビュー』(1995・東京新聞出版局)』『瀬島龍三著『幾山河――瀬島龍三回想録』(1996・産経新聞ニュースサービス)』『保阪正康著『瀬島龍三――参謀の昭和史』(文春文庫)』『共同通信社社会部編『沈黙のファイル「瀬島龍三」とは何だったのか』(新潮文庫)』

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