平安末期の院政時代に隆盛をみせた本地垂迹(ほんじすいじゃく)の思想は、熊野三山に根強く発達し、院(法皇・上皇)や女院をはじめ貴族たちの熊野社参は絶えることがなかった。なかでも後鳥羽(ごとば)上皇(院政1198~1221)は、1198年(建久9)の19歳のときから毎年のように、廷臣を従えて参詣(さんけい)を企てた。三山への長途の路次において、分霊を祀(まつ)った主たる王子社は宿泊所ともなった。その報賽(ほうさい)を兼ねて、一行の旅情を慰めるために歌会が開かれ、そのおりに各自詠を清書したものが熊野懐紙の名で現存し、14名34枚を計上、諸家に分蔵される。うち開催年月日の明らかなものは、1200年(正治2)12月3日の切目王子(きりべのおうじ)御会、同年12月6日の滝尻王子(たきじりのおうじ)御会、1201年(建仁1)10月9日の藤代王子(ふじしろのおうじ)御会の三度で、不明の分もある。
古来、筆者が明らかで、熊野三山と深いかかわりをもつこの懐紙は、茶席の名物としても名高い。その成立は『新古今和歌集』の撰進(せんしん)される数年前にあたり、いかにも歌道の盛況をしのばせるものがある。
[古谷 稔]
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…詩を書いたものを〈詩懐紙〉といい,懐紙中最古の作品として平安中期,969年(安和2)の藤原佐理(すけまさ)《隔水花光合》がある。和歌を書いた〈和歌懐紙〉は平安末期から多くの作品が伝存するが,西行,藤原頼輔らの《一品経和歌懐紙》(平安末),後鳥羽天皇が熊野三山に参詣した折(1198∥建久9),路すがら供奉の近臣たちと催した和歌会の《熊野懐紙》などが名高い。また奈良春日若宮の神官と若宮ゆかりの人々による《春日懐紙》(鎌倉時代)は,紙背に《万葉集》が書写されていることで知られる。…
※「熊野懐紙」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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