鎌倉前期の歌人。猫間(ねこま)中納言(ちゅうなごん)とよばれた権(ごん)中納言光隆の子。母は太皇太后宮亮(たいこうたいごうぐうのすけ)藤原実兼(さねかね)の女(むすめ)。侍従(じじゅう)、上総介(かずさのすけ)、宮内卿(くないきょう)などを歴任し、従(じゅ)二位に至り、壬生二品(みぶにほん)、坊城二品などとよばれた。藤原俊成(しゅんぜい)に歌を学び、俊成の子定家(ていか)とは生涯を通じて歌友であり、双璧(そうへき)とされる好敵手でもあった。歌風は定家に比して概して平明である。後鳥羽(ごとば)院の信任が厚く、1201年(建仁1)の和歌所設置に際しては定家らとともに寄人(よりゅうど)とされ、さらに『新古今和歌集』撰者(せんじゃ)5人の1人に加えられた。順徳(じゅんとく)天皇の内裏(だいり)では、定家とともに宮廷和歌の指導にあたった。また、娘承明門院(土御門(つちみかど)院)小宰相(こざいしょう)の関係からか、土御門院にも親しい感情を寄せていた。このような関係から1221年(承久3)の承久(じょうきゅう)の乱によって後鳥羽、土御門、順徳の三院が遠所に遷(せん)された衝撃は大きかったが、乱後もむしろこの悲しみを一つの原動力として盛んに作歌活動を続け、隠岐(おき)(島根県)の後鳥羽院とは音信を絶やさなかった。しかし官途のうえでは不遇で、最晩年にようやく従二位に至った。1236年(嘉禎2)病により出家、法名を仏性と号し、翌年4月9日、難波(なにわ)(大阪)の天王寺で日想観を行いながら没した。年80。家集『壬二(みに)集』(玉吟集)、自歌合(じかあわせ)『家隆卿(きょう)百番自歌合』などがあり、『千載(せんざい)和歌集』以下代々の勅撰集に入集(にっしゅう)しているが、歌論としてまとまったものはない。子の侍従隆祐(たかすけ)、承明門院小宰相も歌人として知られる。
[久保田淳]
風そよぐならの小川の夕暮はみそぎぞ夏のしるしなりける
『久保田淳編著『藤原家隆集とその研究』(1968・三弥井書店)』
平安末~鎌倉初期の歌人。藤原北家良門流。正二位権中納言光隆の次男で,従二位宮内卿に昇る。20歳ころ藤原俊成の門下となり,またこのころ寂蓮の婿となったことが《古今著聞集》に見える。天性の詩人的素質に恵まれ,1186年(文治2)西行の勧めで定家らとともに〈二見浦百首〉を詠んで以来,御子左家(みこひだりけ)少壮歌人として頭角を現し,1193年(建久4)《六百番歌合》などでの実作者としての充実した活動を経て,藤原定家と並び称されるにいたった。《新古今集》撰者の一人で,《千載集》以下の勅撰集入集281首。〈霞立つ末の松山ほのぼのと波にはなるる横雲の空〉(《新古今集》)など優艶な構成歌以外,〈風そよぐならの小川の夕暮れはみそぎぞ夏のしるしなりける〉(《新勅撰集》《百人一首》)など清澄高雅な作風に特色を示す。定家とは対照的に温厚な性格で,後鳥羽院の隠岐遷幸後も交信を絶やさなかった。家集《壬二(みに)集》。
執筆者:上条 彰次
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(渡部泰明)
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1158~1237.4.9
名は「かりゅう」とも。壬生二品(みぶのにほん)とも。鎌倉前・中期の歌人。父は光隆。母は藤原実兼の女。従二位宮内卿。和歌を藤原俊成に学ぶ。1186年(文治2)西行勧進の「二見浦百首」を詠み,以後「六百番歌合」などに参加,藤原定家らとともに歌壇に新風を吹きこんだ。「正治初度百首」に参加し,後鳥羽院歌壇の有力歌人として活躍。「新古今集」の撰者の1人。つづく順徳天皇歌壇では指導者的立場で活動した。承久の乱後は隠岐国の後鳥羽上皇と連絡を絶やさず,「遠島御歌合」には自詠を送っている。晩年まで旺盛な作歌活動をつづけた。家集「壬二集(みにしゅう)」は藤原基家編の他撰家集。「千載集」以下の勅撰集に入集。
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