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寂蓮 じゃくれん

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

寂蓮
じゃくれん

[生]?
[没]建仁2(1202).7.20. 京都
平安時代末期~鎌倉時代初期の歌人。僧俊海の子。俗名,藤原定長。伯父の藤原俊成の養子となり,官は中務少輔となったが,応保2 (1162) 年定家が誕生したので家督を譲って出家し,寂蓮と称した。

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デジタル大辞泉の解説

じゃくれん【寂蓮】

[1139ころ~1202]平安後期・鎌倉初期の歌人・僧。俗名、藤原定長。俊成の養子、のち出家。新古今集撰者の一人となったが、撰なかばで没。歌集に「寂蓮法師集」。

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百科事典マイペディアの解説

寂蓮【じゃくれん】

鎌倉初期の歌人。俗名藤原定長。藤原俊成の甥で,その養子となる。30歳ごろ出家して諸国を行脚,歌道に精進した。御子左家の中心的歌人として活躍,《六百番歌合》での顕昭との論争は有名。
→関連項目懐紙熊野懐紙藤原家隆病草紙

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

寂蓮 じゃくれん

1139?-1202 平安後期-鎌倉時代の僧,歌人。
保延(ほうえん)5年?生まれ。俊海の子。伯父藤原俊成(としなり)の養子となり,承安(じょうあん)2年(1172)ごろ出家。西行,寂然(じゃくぜん)らとまじわり,後鳥羽院(ごとばいん)歌壇で活躍し,和歌所の寄人(よりゅうど)になる。「千載和歌集」以下の勅撰(ちょくせん)集に117首のる。家集に「寂蓮法師集」。「新古今和歌集」の撰者(せんじゃ)にえらばれたが,撰進に先だち建仁(けんにん)2年の7月20日ごろ死去。64歳? 俗名は藤原定長。
【格言など】村雨の露もまだ干ぬまきの葉に霧立ちのぼる秋の夕暮(「小倉百人一首」)

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朝日日本歴史人物事典の解説

寂蓮

没年:建仁2.7.20頃(1202.8.9)
生年:保延5?(1139)
平安・鎌倉時代の歌人。俗名は藤原定長。藤原俊成の兄弟である醍醐寺の僧,阿闍梨俊海の子。久安6(1150)年ごろ俊成の養子となり,承安2(1172)年ごろ出家した。仁安2(1167)年8月『平経盛朝臣家歌合』を初めとして,在俗時代からいくつかの歌合に参加。出家後作歌活動も本格化し,『二見浦百首』(1186年,西行勧進)や『殷富門院大輔百首』(1187)など藤原定家らと詠み,新風和歌の確立に貢献した。建久4(1193)年ごろの『六百番歌合』で,六条家の顕昭と激しい論争を闘わせたことは有名。『正治二年初度百首』(1200)の作者に加えられ,後鳥羽院仙洞歌壇の主要歌人として活躍。建仁1(1201)年7月,新たに設置された和歌所の寄人となり,次いで『新古今和歌集』(1205)の選者に選ばれた。その後も,『建仁元年仙洞五十首』や『三体和歌』(1202),『千五百番歌合』(1202年ごろ)などの催しに名を連ねたが,『新古今和歌集』の完成をみることなく没した。家集に『寂蓮法師集』があり,そのほか『無題百首』『結題百首』が存する。『千載和歌集』以下の勅撰集に,117首入集。才知,才気に富み,本歌取などの技法を巧みにこなす,切れ味のよい詠み口を身上とする。<参考文献>半田公平『寂蓮法師全歌集とその研究』

(渡部泰明)

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世界大百科事典 第2版の解説

じゃくれん【寂蓮】

?‐1202(建仁2)
鎌倉初期の歌僧。俗名藤原定長。叔父俊成の養子となり,従五位下中務少輔に昇るが,俊成の実子誕生を機に30歳代で出家し,歌道に精進。御子左(みこひだり)家の中心歌人として活躍し,《六百番歌合》での顕昭との〈独鈷鎌首(とくこかまくび)論争〉は有名。《新古今集》撰者となるが,撰進前に死没した。《千載集》以下の勅撰集に,〈村雨の露もまだひぬ槙の葉に霧たちのぼる秋の夕暮〉(《新古今集》)など117首入集。【上条 彰次】

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大辞林 第三版の解説

じゃくれん【寂蓮】

1139?~1202) 鎌倉初期の歌人。俗名、藤原定長。醍醐寺阿闍梨俊海の子。一時、叔父俊成の養子。反六条家の新派歌人として活躍。和歌所の寄人よりうどとなり、新古今集撰者の一人となったが、完成前に没。千載集以後の勅撰集に一一七首入集。家集「寂蓮法師集」

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

寂蓮
じゃくれん
(1139ころ―1202)

平安後期・鎌倉初期の歌人。本名藤原定長。父は醍醐寺(だいごじ)の阿闍梨(あじゃり)俊海。父の出家後、藤原俊成(しゅんぜい)の養子となったが、のち辞して出家。西行に倣い諸国行脚をするとともに歌人としても活躍した。御子左(みこひだり)家の一員として九条家歌壇に属していたが、後鳥羽院(ごとばいん)による新古今歌壇形成とともに、活躍はさらに目覚ましく、1201年(建仁1)和歌所寄人(よりゅうど)に、ついで『新古今和歌集』の撰者(せんじゃ)に選ばれたが、翌年没し、選歌は上進していない。「六百番歌合(うたあわせ)」のおりの六条家の顕昭(けんしょう)との論争(独鈷鎌首(とっこかまくび)の争い)、三夕(さんせき)の歌「さびしさはその色としもなかりけりまき立つ山の秋の夕暮」で知られる。家集に『寂蓮法師集』がある。[後藤重郎]

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