中国,金朝が実施した制度。軍隊編成の単位であり,同時に統治組織も兼ねた。またその長官名。1114年遼との間に戦いが始まった直後に阿骨打(アクダ)(太祖)は支配下の女真人を猛安謀克に組織して,各300戸で1謀克,10謀克で1猛安を編成したが,ついで新しく占領した地域の係遼籍女真人と契丹人,奚人,それから遼東の漢人と渤海人も次々と猛安謀克に組織した(漢人と渤海人についてはのちに廃止)。謀克からはだいたい100名くらいの割で徴兵して部隊を編成させた。そして戦功のあったものや有力者を猛安と謀克に任命して,所轄の猛安と謀克の統治権と指揮権をゆだねた。熙宗と海陵王のときには多数の猛安謀克戸を華北に移住させ,交替で首都と地方の守備につかせた。猛安謀克戸には田地を支給し,税も一般民戸より軽かったが,世宗時代になるとその間に貧富の格差が広がった。階級的な対立が生まれ,困窮した猛安謀克戸は悲惨な状況におちこんだ。そこで世宗は猛安謀克戸に対する統制を強め,諸改革を実施する。女真文化を奨励してその奮起を促すとともに,貧窮戸を救うために西北辺境の防衛を募兵に改めたり給与地の交換を行った。80年(大定20)からの大改革では,猛安謀克戸の財産調査をして負担を公平にし,また権勢家の大土地所有を禁止して困窮戸に配分した。しかし,世宗の改革も根本的な解決にはならず,次の章宗時代には猛安謀克制はますます衰えた。なお猛安は女真語で〈千〉,謀克は〈郷里,族長〉を表す。
執筆者:松浦 茂
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中国、金王朝(1115~1234)の軍事および行政組織の単位、および統治者の呼称。金建国前の女真各部の首長は、平時には孛菫(ぼっきん)とよばれたが、戦時には軍事上の指導者となり、猛安または謀克とよばれた。猛安は千を意味する女真語ming-kan、謀克は里長や郷里を意味するmukeの音訳といわれる。金の太祖阿骨打(アクダ)は寧江(ねいこう)州の戦いののち、女真に古くからあった猛安・謀克制を金の兵制と定め、300戸を1謀克とし、1謀克から選ばれた兵で1謀克軍を編成し、10謀克をもって1猛安を組織した。猛安軍および謀克軍の指揮者も猛安・謀克とよばれた。金国の領土の拡大とともに東京道、上京道、中京道の女真人、奚(けい)人、契丹(きったん)人、渤海(ぼっかい)人などにも猛安・謀克制が施行された。太宗(在位1123~35)の末年から煕宗(きそう)(在位1135~49)の時代、多くの猛安・謀克戸が集団をなして華北の新占領地に移住させられた。彼らには土地と牛具が与えられ課税額も少なく優遇を受けたが、しだいに奢侈(しゃし)にふけり、生産から遊離して徒食し貧困化し、漢人との通婚も許されて血の純粋さも失われ弱体化した。1234年、金国がモンゴル軍に滅ぼされるとともに猛安・謀克制も崩壊した。
[河内良弘]
『三上次男著『金史研究 一』(1972・中央公論美術出版)』
金代の行政,軍事両面を兼ねた制度,また官名。300戸を1謀克,10謀克を1猛安とする2級行政組織に,1謀克から100人の兵を徴する軍事組織を重ねたもの。猛安・謀克はまた,行政組織の長であるとともに,軍隊の長でもあった。太祖阿骨打(アグダ)はこの部族的軍事制度を組織化し,軍人たる女真(じょしん)人,契丹(きったん)人に適用した。金の華北進出後は州県制と併用された。猛安は千を意味するming-kan,謀克は族長を意味するmukeという女真語の音訳。
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