樹木は古くから信仰の対象となり,いわゆる聖樹として崇拝されてきた。そのうち,古代の西アジアに発祥し,樹木によって生命の源泉,人類の誕生を象徴的に示す樹木崇拝の一表象をとくに〈生命の樹(木)〉と呼ぶことがある。そこでは多くの木の中でもとりわけナツメヤシが古代人の崇拝の対象となり,乾燥地帯にあっても枯渇することのない生命力を象徴する図像の主題となった。前10世紀と推定される旧約聖書《創世記》の人間誕生の神話にも,〈善悪を知る木(知恵の木)〉とならんで,〈生命の木〉が言及されている。それによると,神は土の塵(ちり)で人をつくり,その鼻に命の息を吹きこんでエデンの園に住まわせたのであるが,園の中央には〈生命の木〉と〈善悪を知る木〉とがあり,エデンから流れ出る川が園をうるおしていたという(2:9)。アッシリア美術にみられる〈生命の樹〉の図像は,宮殿壁面浮彫や円筒印章の陰彫が主であり,ルーブルと大英博物館所蔵のアッシリア,ハラフ出土の浮彫は,前9世紀のものである。
キリスト教美術に〈生命の樹〉が主題として登場するのは,おそらく3世紀から4世紀にかけて支配的であった象徴主義の時代であり,そこではキリストは小羊や魚や〈生命の樹〉によって象徴的に表現されている。ただし,〈生命の樹〉の場合,単独の図像としてよりも,十字架およびキリストを表すギリシア文字ΧΡの2字からなるクリスモン文様との組合せ図像として好んで使用され,それらはカタコンベの壁画(ローマ)や石棺の浮彫(コプト)などに,数多くみられる。キリスト教美術において〈生命の樹〉が独立した図像として表現されたのは,神学者ボナベントゥラが1274年に考案したものが最初であろう。キリストが磔刑にされている木の幹から,左右に12本の枝が分かれ出,その枝には48のメダイヨンが配され,そこにキリストの生涯が表されている。〈エッサイの木(根)〉と称されるキリストの系譜の図像と類似してはいるが異なっている。その代表例としては,パチーノ・ディ・ボナグイーダPacino di Bonaguidaの作品(14世紀初頭)を挙げることができるだろう。
キリスト教文化圏以外でも〈生命の樹〉の表象ないしそのバリエーションには多くの例がある。イスラムにおいても,楽園の中央にある樹木シドラは,こうした観念の所産と考えられる。さらに北欧神話に登場するイグドラシルは,ウルズの泉の上にそびえる常緑のトネリコであるが,すべての生命の源泉であり,世界の秩序と運命を支配する木であるという点で,〈生命の樹〉とみなされる。この木の梢には1羽のワシが座を構え,ニーズホッグという竜がその根をかみ,4頭のシカがその枝の若芽を食い,1匹のリスが木を上ったり下りたりしてワシの語ることを根元の竜に伝えているという。古代メソポタミアやペルシアの神話にみられる〈生命の樹〉も,その梢にはワシが座を構えており,インドの神話では,ワシにかわって金翅鳥ガルダが活躍する。このように,〈生命の樹〉と特定の動物との組合せが広くみられるのも興味深い現象で,モティーフの伝播が想定されるゆえんである。
執筆者:山形 孝夫
〈生命の樹〉を典型とする聖樹は世界各地で装飾文様として使われている。古代西アジアの乾燥地帯では慈雨の恵みを願うところから,天空の泉に不死の生命を授ける聖なる樹木があるという信仰を持った。イランではハオマと呼ばれたが,これはブドウだとされる。聖樹は多く聖獣や女神を伴った形で装飾文様に使われる。すでに前3千年紀のスーサ出土の円筒印章には動物を伴った樹木文様や,樹下に聖獣を配したものがある。聖獣のかわりに女神を配したものは,いわゆる〈樹下美人図〉と呼ばれる文様で,正倉院の《鳥毛立女屛風(とりげりつじよのびようぶ)》は有名である。このモティーフはイランのハオマの豊穣の女神アナーヒターとの結びつきから生じている。インドでは聖樹にヤクシーがまといつく表現がなされている。仏教ではインドボダイジュを釈尊のシンボルとして扱い,美術にもそうした表現がなされている。そのほかアショーカ(ムユウジュ),シャーラ(サラソウジュ),マンゴー等が仏教美術での聖樹として用いられている。これらのモティーフは仏国土を表現する宝樹にも使われている。なお,ヨーロッパのキリスト教美術でも〈生命の樹〉としてのブドウがしばしば描かれ,今も行われる枝の主日のオリーブやナツメヤシの祝福,またクリスマス・ツリーも聖樹崇拝の名ごりといえる。
→木
執筆者:長田 玲子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
『旧約聖書』「創世記」の楽園物語によれば、神によって創造された最初の人間アダムとイブが初めに置かれていたエデンの園の中央には、知恵の樹(善悪を知る樹)と並んで生命の樹が植えられていた。ところが、禁断の知恵の樹の実を食べたアダムとイブは楽園から追放され、生命の樹は、もはや人間が近づくことのないようにと、神によって剣と炎で守られた。それは、生命の樹の実を食べる者は永遠に生きるからだ、という。『新約聖書』の「ヨハネ黙示録」によれば、この生命の樹は天上にあり、キリストを信じ、迫害のなかにあっても信仰の道を守り通す者には、この樹の実にあずかる特権が与えられるといわれる。このように生命の樹は、ユダヤ教、キリスト教的伝統のなかで、永遠の生命の象徴として神話的に物語られている。
宗教学的にみると、特定の樹木を生命力の源泉として崇拝する信仰や、豊饒(ほうじょう)、生産の象徴としての樹木の図象化などの現象が広く世界に流布していることがわかる。宗教学では、むしろこのような宗教現象を生命の樹、または世界樹という術語で言い表す。たとえば古代オリエントを中心に、1本の樹木(多くはナツメヤシ)とその両側にそれぞれ一頭の動物(多くはレイヨウ類)が描かれる図像が数多くみいだされている。これは明らかに、樹木を生産力の象徴とみなす豊饒信仰の表現であり、宗教学でいう生命の樹の典型である。楽園物語の生命の樹は、むしろこういった信仰がイスラエル化されたものとみることができる。
[月本昭男]
『久米博訳『エリアーデ著作集2 豊饒と再生』(1974・せりか書房)』
出典 占い学校 アカデメイア・カレッジ占い用語集について 情報
…後3世紀から6世紀の間に《セーフェル・イェツィーラー(形成の書)》という最も重要なカバラ文献が成立する。これは後述する〈生命の樹〉の10のセフィロトと22の小径に宇宙論的象徴体系を配当したものである。12世紀には《セーフェル・ハ・バーヒール(清明の書)》が現れる。…
…このとき,神から流出する力を〈セフィロト〉と呼ぶ。これは3枝に分かれてカバラの生命の樹をつくる。このカバラの木は,ルネサンス以降の神秘主義者たちに受け継がれ,超越的源泉からの宇宙の生成の象徴図となった。…
…キリストがかけられた十字架に関する初期東方伝説。アダムが死んだとき,その子セツSethは神の命により天国の生命の樹から三つの種子を採り,アダムの舌の下に置いた。後年これらの種子はアダムの墓に生育し,やがて美しい大木となって繁茂した。…
…樹木に神,神霊,精霊が宿るとする観念は広く見いだされ,樹霊に対して多産を祈る日本の〈成木責め(なりきぜめ)〉の民間習俗は,ブルガリア農民がクリスマス・イブに実をつけない果樹に斧を振っておどす習俗と対応している。〈生命の樹〉は死者をよみがえらせ,病気をいやし,若さを回復せしめる神秘の木で,十字架はしばしば生命の樹として描かれる。託宣の木にはドドナにおけるゼウス神託の聖なるオーク,デルフォイにおけるアポロンのゲッケイジュなどがあげられる。…
…ただし,〈宝相華〉という名称は宋朝以後につけられたものである。空想的な樹木文様として代表的なものは,いわゆる〈聖樹〉で,古代西アジアの図式的な生命の樹から,現実的なナツメヤシやブドウの樹へと発展し,イスラム時代にはまた空想的なアラベスク樹にもどっていった。インドの菩提樹は仏像の背後に配されたばかりでなく,イラン系のブドウの樹とも融合し,中国の唐朝にとり入れられて染織文様として流行した。…
※「生命の樹」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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