田戸村(読み)たどむら

日本歴史地名大系 「田戸村」の解説

田戸村
たどむら

[現在地名]余呉町田戸

小原おはら村の北、丹生にゆう川右岸の山村。地内で合流する支流奥川並おくこうなみ川に沿い奥河並村へ通じる道が分岐する。寛永石高帳に村名がみえ高七石余。領主変遷は下丹生村と同様か。寛文一二年(一六七二)の免は五ツ四厘余。同一一年北国街道の人夫手当としての酒手につき奥河並村と出入があり、従来どおり商人から取ることとした。同村との立会橋は、橋木三本のうち一本を当村、二本を同村が負担、正徳三年(一七一三)には大津代官所より木代八〇匁・人足杭持方米一石の助成を受けた。小原村との山論では、文化一二年(一八一五)なら谷を入会山とし炭焼・釜場は相互利用とした。


田戸村
たどむら

[現在地名]堀之内町田戸

下倉したぐら村の西。魚野うおの川下流に根小屋ねごや村、南の対岸大石おおいし村。根小屋村からの分村という(堀之内町史)正保国絵図に「田戸新田」とあり、高四三石余。天和三年郷帳では本村のほかに同所新田高四三石五斗余がある。同年(一六八三)検地帳(堀之内町史)では田二町八反余・畑二町八反余。元禄元年(一六八八)堀之内組大肝煎の堀之内村宮彦左衛門が魚野川辺に向島むこうじま新田を開発し、堀之内村枝郷として分村。同新田は現在川中に没している(同書)


田戸村
たどむら

[現在地名]いわき市四倉町

田富とも記された。文永六年(一二六九)一二月九日の八幡宮鳥居造立配分状に「柱一本 番木一 片寄 衣谷 田富 富田 寄合可被取出」とみえる。それ以前の元久元年(一二〇四)九月一〇日の八幡宮領好島庄田地目録注進状写に田戸次郎の名がみえている。文永一一年八月六日の八幡宮鳥居作料等配分状案では、田富は鳥居作料一〇〇文と番匠の食料一日分を負担している。建武元年(一三三四)九月七日の八幡宮造営注文案に「一神子屋伍間内 三間田富村地頭小三郎入道役所也」とみえる。永徳四年(一三八四)八月日の好島東庄放生会祭礼役注文(以上飯野八幡宮文書)に「田富村地頭領家寄合之 舞殿五間之内三間田富村分流鏑馬相撲一番領家分大瓶并十二合」とあり、田富村の地頭方・領家方共同で舞殿三間分と流鏑馬相撲奉納があり、領家方にはさらに大瓶と酒一二合が課せられている。


田戸村
たどむら

[現在地名]蒲刈町田戸

蒲刈島中央北に位置近世、行政的には蒲刈島に含まれたが、庄屋のいる小行政単位であった。宝永二年(一七〇五)の役家数は二〇(宝永二年年貢割付雛形覚「芸南蒲刈島誌」所収)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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