(読み)タ

デジタル大辞泉 「田」の意味・読み・例文・類語

た【田】

耕して稲などを栽培する土地。ふつうは水を引き水稲を栽培する水田をさす。畑に対していう。たんぼ。「を打つ」
[下接語]青田あらあら荒れ田植え田かど刈り田黒田塩田しろ白田泥田沼田冬田古田水田(だ)浅田いなおか牡蠣かき隠し田・草田・棚田つき苗代なわしろ野田はすひつじ深田外持ほまちやち田・やまい山田早稲わせ
[類語]水田たんぼ田地田地田畑青田稲田泥田山田棚田千枚田新田本田美田休耕田廃田

でん【田】[漢字項目]

[音]デン(呉) [訓]
学習漢字]1年
〈デン〉
たんぼ。畑。「田園田地田野乾田帰田耕田荒田水田桑田美田陸田
物を産出する土地。「塩田炭田票田油田
いなか。「田家田紳
狩り。「田猟
「田楽」の略。「魚田
〈た(だ)〉「田畑青田稲田
[名のり]ただ・みち
[難読]田舎いなか田鶴たず田螺たにし田圃たんぼ

でん【田】

。田地。田畑。転じて、物を生み出すところ。
「此砂浜は…衣食の―なり」〈蘆花自然と人生
田楽でんがく豆腐をいう女房詞。→御田おでん

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精選版 日本国語大辞典 「田」の意味・読み・例文・類語

た【田】

  1. 〘 名詞 〙
  2. 耕作して稲などを植える土地。湿田と乾田とがある。
    1. [初出の実例]「なづきの多(タ)稲幹(いながら)に 稲幹に 匍ひ廻ろふ 野老蔓(ところづら)」(出典古事記(712)中・歌謡)
    2. 「この家をば寺になし、あたりの田などのやうの物は、みな、その寺の事にしおきて」(出典:源氏物語(1001‐14頃)若菜上)
    3. 「Tauo(タヲ) スク、または、スキカエス」(出典:日葡辞書(1603‐04))
  3. に作られている稲などの作物。
    1. [初出の実例]「左近と申者の牛が、私の一たんの田を大目ほどたべて御ざる」(出典:虎明本狂言・右近左近(室町末‐近世初))

でん【田】

  1. 〘 名詞 〙
  2. (た)はたけ。田地。田畑。〔書経‐禹貢〕
  3. 田楽豆腐(でんがくどうふ)をいう女房詞。
    1. [初出の実例]「てん二かまいる」(出典:御湯殿上日記‐弘治元年(1555)閏一〇月二〇日)

でん【田】

  1. 姓氏の一つ。

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普及版 字通 「田」の読み・字形・画数・意味


常用漢字 5画

[字音] デン
[字訓] た・たつくる・かり

[説文解字]
[甲骨文]
[金文]

[字形] 象形
田の区画の形に象る。卜文では必ずしも方形ではないが、金文では方形に近い。金文にみえる賜与に、「田一田」と「人一人」とが対応する例が多く、その区画は一夫の耕作面積に相当するものであったのであろう。〔説文〕十三下に「陳(つら)ぬるなり」と陳列の意とする。陳・田は古音近く、田斉の田は金文ではに作る。また田に田猟(かり)の意があり、〔詩〕〔書〕には田猟にすべて田を用いる。畋(でん)は後起の字である。

[訓義]
1. た、はたけ。
2. たつくる、たがやす、うえる。
3. かり、のち畋に作る。
4. 陳と通じ、つらねる、みちる。
5. 形況の語、まるいもの、鼓の音など。

[古辞書の訓]
和名抄〕田 太(た)。語抄に云ふ、水田、古奈太(こなた) 〔名義抄〕田 タ・トコロ・ミツ・ノフ・カリ/水田 コナタ/白田 ハタケ/陸田 ハタケ/田舍 ヰナカ

[部首]
〔説文〕は田部に二十九字を属する。その前後の里部、(きよう)部、男部の字もその系列に入る。〔玉〕の田部の字は八十一字、その増加が著しい。

[声系]
〔説文〕に田声として畋・佃・甸の三字を収める。は音疆(きよう)。〔段注〕に「陳陳相ひ因る」の陳で、すなわち田声によむべきであるという。〔玉〕は疆の声である。疆の初文であろう。

[語系]
田・畋・佃dyenは同声。耕作と狩猟とは、ほとんど同じような生産の方法とされたのであろう。田を陳・塡の声義を以て解する説もあり、陳dien、塡dyenは陳列、塡密の意がある。

[熟語]
田衣・田役・田園・田翁・田家・田歌・田稼・田課・田鶴・田間・田漢・田器・田・田客・田漁・田業・田洫・田具・田鶏・田犬・田券・田原・田戸・田公・田功・田耕・田采・田作・田蚕・田産・田矢・田事・田時・田社・田舎・田車・田者・田主・田狩・田収・田・田所・田訟・田・田燭・田神・田青・田税・田祖・田租・田鼠・田・田荘・田卒・田・田宅・田地・田畜・田疇・田丁・田・田田・田土・田土・田奴・田・田農・田婆・田畔・田表・田婦・田夫・田父・田賦・田畝・田圃・田・田埜・田邑・田遊・田弋・田螺・田・田里・田閭・田猟・田廬・田路・田・田禄
[下接語]
隠田・田・田・営田・塋田・爰田・園田・塩田・秧田・下田・火田・田・夏田・我田・田・間田・帰田・畿田・義田・旧田・均田・頃田・原田・公田・耕田・膏田・墾田・采田・山田・私田・賜田・狩田・田・孰田・春田・乗田・穣田・食田・殖田・神田・新田・水田・井田・青田・田・籍田・荘田・桑田・大田・宅田・丹田・炭田・治田・徹田・典田・土田・稲田・耨田・屯田・農田・薄田・班田・肥田・陂田・悲田・美田・苗田・賦田・糞田・甫田・圃田・墓田・牧田・名田・薬田・油田・遊田・田・沃田・陸田・良田・力田・鹵田・賂田・廬田・禄田

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改訂新版 世界大百科事典 「田」の意味・わかりやすい解説

田 (た)

一年のうち,そこに作る作物の生育期間中は湛水灌漑のできる耕地を田という。今日にあっても,特別にその地に水を導く施設のない田もあり,それを天水田といっている。天水田は同時に通年水を落とすことのできない湿田である。田に作られる作物は稲を中心とするが,冬季にイグサを作ったり,ハスを植えてれんこんを取ることもある。はじめて稲を作ったころには,自然に浅い湛水のできる土地が選ばれたにちがいない。貯水池にせよ河川にせよ,新しい施設を作り,水を導く溝渠を作って作られる田は,土木工法の発展や労働力を多量に集めうる組織が生じた後の発展形態を示すものである。なお,農学的な解説,また世界のようすは〈水田〉の項に譲り,以下日本の田について歴史的に概観する。

稲作の存在を示す遺物が弥生遺跡で発見されたころ,河川・海岸の自然堤防上の遺跡の場合,自然堤防の背後の沼地を田として利用したものと考えられた。遺跡が沖積地に臨む丘の突端などにある場合,前面の沼地のほか,低平な谷底の湿地などの利用も考えられる。関東のように海退現象によって多くの平たんな谷戸地形をもつところでは,古くは弥生時代から多くの時代を経て,今日もそのような谷戸田(谷戸)の耕作が続いている。それらに近い条件の山間の小谷も古くより田として利用された可能性がある。第2次大戦後,登呂遺跡をはじめ多くの水田遺構が発見されている。登呂の水田遺構は周辺の低湿地より高い所にあり,田の区画は多数の杉の割板を打ってあぜを作り,人工の水路をせきとめて灌水する形式となっている。これは一段の進歩をとげた田の形式を示し,20戸前後の一集落の労力では作りえず,多量の労働力投下によって作られている。貴族・土豪の墳墓が大小の古墳を作る時代に入れば,多量の労働使役が政治的に可能となる。初期の前方後円墳が尾根の先端に作られたとき,その側谷には古来の谷田が開かれていたと思われる。その谷奥に土堰堤を築いて溜池を作れば,谷口の用水は豊富になり,稲作は安定する。その余水を使って谷外の平たん部に田を開くことも可能になる。谷頭に貯水池を作りうる土木の力は,やがて大前方後円墳に環濠を作らせるようになる。登呂方式の水路灌漑や谷頭の貯水池の水を引く平たん田は,通年湿地状態であった沼地の田とは異なった,収穫後に水を落とすことのできる乾田の第一歩の姿を示す。

 田の開発には各時代の農民たちが自分の手で少しずつ行うもののほかに,各時代の貴族,寺社,大小の領主たちの手になるものがある。斑鳩(いかるが)宮が作られたころ,周辺の道路や耕地は後の条里制の方位とは違った基準に従っていた。その後,奈良盆地の耕地は東西南北に従って作られた道路を基準に条里制の形をとっていき,藤原京,平城京もその基準に従って作られる。722年(養老6)には墾田100万町歩開墾が計画され,墾田開発の諸法も公布され,寺社の格,諸臣の位に応ずる墾田面積も定められた。東大寺の北陸荘園の開発などもこの動きのなかのものであろう。その一つである越前国道守(ちもり)荘は現在の足羽(あすわ)川,日野川の合流点のあたりで,やがて水害によって消滅するが,その地では用水路灌漑が行われている。都に近い奈良盆地では平城京羅城門から南に通じる下ッ道で東西を分け,全域を通じる整然たる条里の地割りができる。しかしこの地の田としての開発は同時に全部ができたのではなく,灌漑用水の開発に従って徐々に条里地割内に開かれていく。その初期の水源は周辺の山地末端部の貯水池の開発にたよっていた。池田荘を潤す広大路池についてその拡大のあとが追究されているが,拡大の過程で小河川の水を池の水源とすることも知られている。条里地割内には皿池と呼ばれる四方を土堤で囲まれた溜池も作られるが,その多くは江戸時代以後明治にかけて作られたと見られる。鎌倉時代には同じ大和国小東(こひがし)荘で荘官(地頭)の手によって溜池が増設され,荘内の耕地面積を広げている例も知られる。畿内の荘園には荘内に貯水池をもつものが少なくない。

河川の水の利用は小河川から始まる。河床に何本かの杭を打ったり,石を並べて分水することから始まるが,平安京の西郊,桂川の沿岸では鎌倉・室町時代には多数の堰堤が作られて両岸の地を潤している。紀ノ川の下流部分にも荘園時代から河川灌漑が知られている。このような田地は本格的な二毛作の行われる基盤となる。領主層の手による開発のほかに,名主層の傍系血族や下人たちの一人前の勤日の労働を果たしたあとの余暇に開かれた,条件の悪い少量の開墾地も室町時代にはみられる。ほまち田などと呼ばれて,家持下人の家族生活の資を供給し,領主の検地帳にも下人持として現れるものもある。

田,それも二毛作の乾田の著増する第一の時期は戦国時代の後期から江戸時代初期のころである。そのころを開発期とする各地の河川の一番井がある。それらはかつてその河川が異常増水期に多数の乱流を分けた,その一つの分岐点を固め,旧流路の各所を緩傾斜に直して用水路にしたと思われるものである。他の一つはより計画的で,旧名主クラスの上層農民の連合(惣など)の手で,中河川から取水するものである。前者には排水不十分な湿田を残すが後者では乾田が多く,平たん地を緩やかに流れる用水路が作られ,水の管理権が永く百姓上層の手に握られている。乾田の増加は裏作麦の作付増をきたし,それは土の透水性を増大させる。この結果主作物たる稲の灌漑用水を不十分にすることから,二毛作の制限が生じたりする。

 1700年に近づくころから,大河川の治水が始まる。その進行とともに大河川の川口近くの開拓や干拓が大規模に行われる。海岸平野が耕地化し,稲作の中心地になるのはこのころからである。干拓には藩の手になるものが多いが,海岸平野では商人の資力によるものが多く,町人開発(請負)新田と呼ばれる。淀川の川口新田大和川付替後の深野新田などが著名である。享保期(1716-36)にかけては信濃川,阿賀野川下流地帯にも商人の資力による開田が進む。これら海岸平野の田には水利に苦しむものも少なくなく,岡山の興除新田などは旧用水の流末の余水を使っている。これらの土地は後に治水・灌漑が完備する昭和期には全国有数の高生産力地帯となる。

 大河川沿岸の地は元禄期(1688-1704)以前の治水段階では,旧来の本堤防は川の流れから遠く隔たった村囲いの堤であり,川と堤防の間の地,または二重堤の間の地は洪水時には放棄される耕地で,このような田は流作場と呼ばれた。治水の発展によって開田可能となる田のほかにも,農民の手による小規模な開発は江戸時代にも各地で進む。灌漑水路を備えた田の場合は,百姓名をつけた用水路の水を使っている。そのほかにも田の一部の田植を遅らせて,そこに稲作外の時期の降雨を蓄えて周辺の田を増やし,最後にその地に田植するものもある。その田を〈はりだめ〉と呼ぶこともある。地下水の高い畑地の一部を掘り下げて,畑の間に細長い田を作ることもある。畿内や瀬戸内沿岸では,綿作がきわめて有利になると湿田の土を掘り上げて畑状態として綿を作ったり,水量の乏しい所では田地ごとに年々配水を停止して,非灌漑地に綿を作って稲作を安定させるとともに,綿作の有利性をも得ている。綿作地をも含めて江戸時代の貢租制の下では田として扱われた。

明治以後になっても,田はその開発の由来,自然条件の差によって,一区画の面積,形状,利用する用水の種類において多様の違いをもって,そのまま使い続けられてきた。そのことはそのまま生産力の差となっている。明治初期の地租改正の基本資料《府県地租改正紀要》によってみると,江戸時代以来の1村平均反収において京都府葛野郡西九条村(田面積45町6反余)の3石1斗5升,同紀伊郡東九条村(115町5反余)の2石7斗7升のような高収穫村から,山間部の田面積のきわめて少ない村では1斗,2斗しか平均反収のない村まである。明治以後の田について,政府の政策や農民の努力によって行われてきた改良の努力は湿田の排水や灌水量の増加,形状の整形化,一筆面積の拡大など多面的である。そのなかで一地方の田の生産力を安定させ,向上させるのに最も大きな効果をあげたのは,分水路の設置をも含めて治水事業である。1907年以後の利根川,淀川,信濃川,筑後川の諸河川中流部以下の築堤工事は沿岸の水害を減少させ,20年代以後の信濃川大河津分水や北上川の分水はその効果をさらに高めている。排水は農民的な暗渠排水から郡単位,数郡単位の排水路,排水機場の設置などが行われ,明治後期からの耕地整理や61年以後の農業基本法に基づく農政は田の区画を大きくして,今日みる田を作り出している。
執筆者:

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日本歴史地名大系 「田」の解説


たるだ

[現在地名]津南町外丸 樽田

外丸とまる村の枝村。旧魚沼郡と旧頸城くびき郡の境界に近い山頂に孤立する。山下の押付おしつけで分岐した道が貫通し、郡境を越えて天水越あまみずこしを通り松之山まつのやま(いずれも現東頸城郡松之山町)に通じる。延宝七年(一六七九)の外丸郷中高辻(津端一郎氏蔵)によれば、寅の検地で高六石七斗余を検出。文政七年(一八二四)の済口証文(高橋広司氏蔵)によると、同じ枝村の巻下まきした小岡こおかとの間で山論があり、この年奉行所命で解決している。最近まで郷倉が建っていたが、これは天明三年(一七八三)に凶作救済のため幕府から下賜された七石五斗一升の籾を保管するため発足した共同倉庫である。樽田は孤村のためか、明治以降も同様の方法で運用された珍しい例である。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「田」の意味・わかりやすい解説


稲を作付けする耕地,特に水稲耕作地をいう。日本では弥生時代から水田がつくられるようになり,土地所有,社会構造の基礎をなした。水稲伝来期の水田技術は低かったので,主として低湿地につくられたが,土木技術の発達とともに広がり,大化改新前代には田形の画一化も一般化し,国家権力の成立とともに,律令制のもとで口分田を基本とする田制も整備され,条里制によって全国的に把握された。奈良時代末期から平安時代にかけて開墾が盛んとなり,荘園制の生成とともに,名田 (みょうでん) を基本として集約化が進んだ。鎌倉時代には二毛作が行われ,室町~戦国時代には,農具や品種の改良,小農民の土地占有の成立などとともに生産力が大幅に増大した。安土桃山~江戸時代には,田地を基礎とする石高制が確立し,米経済を基礎とする社会体制のもとで幕府,藩,さらに町人による新田開発も進み,明治にいたった。明治以後集約化が進み,寄生地主制が発達したが,第2次世界大戦後の農地改革の結果,自作農が急増し,人口の増加とともに開田技術が進み面積も拡大されていった。一方,化学肥料の発達や機械化の進展とともに生産量が格段に伸びたが,現在は,生産構造の近代化,生産性の向上が問題となっている。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「田」の意味・わかりやすい解説


本来の中国の字義は、区画された圃場(ほじょう)のこと。日本では水稲栽培が中心なので、田とは水田のことをいう。

[編集部]

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世界大百科事典(旧版)内のの言及

【易田】より

…中国古代の休閑耕作地で,易地,轅(えん)田,(えん)田などとも書かれる。《周礼(しゆらい)》大司徒に〈不易の地は家ごとに百畝,一易の地は二百畝,三易の地は三百畝〉とあるのをはじめ,《左氏伝》《国語》は晋が爰田(轅田)を作ったことを伝え,《漢書》地理志には秦の商鞅(しようおう)が轅田を制したという。…

【乾田】より

…作物栽培に必要な期間以外は落水し,乾かすことのできる水田をいう。湿田との対比で使われる用語である。…

【水田】より

…水をたたえて農作物を栽培できるようにした耕地のことで,田またはたんぼともいう。漢字の〈田〉は本来水田および畑の総称であったが,現在日本では,もっぱら水田を意味することばとなっている。…

【田畑成・畑田成】より

…江戸時代,田地と畑地の区別は厳重で,かってに地目を変更することは許されなかったが,用水不足で稲作を行うことが望めなくなった田地を願い出によって畑地に変えることがあり,これを田畑成と称した。逆に,畑地を田地に変えることを畑田成という。…

※「田」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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