町(まち)(読み)まち

日本大百科全書(ニッポニカ) 「町(まち)」の意味・わかりやすい解説

町(まち)
まち

村に対する概念で、人口が密集し、主として商・工業活動が行われる市街地をいうが、「いなか」に対しての都市を意味する語としても用いられる。また地方公共団体の一つとしての意もある。その場合は、村に比べて第二次・第三次産業の比率が高く、政治・行政施設が設けられ、人口密度が高く、町並みが整備されている集落をいう。

 日本における町の成り立ちをみると、奈良時代以前、律令(りつりょう)制の京師(けいし)にあっては、町は市(いち)町に市籍をもつ市人の居住区をいい、官庁放出物資や舶載品が売買されていた。それら商品の交換はおもに穀物布帛(ふはく)によっていて貨幣によることはわずかであった。当時の地方の町は国府や官道の駅、また九州の大宰府(だざいふ)などに発達した。平安時代になり、都が京都に移されると、奈良では興福寺や東大寺などの門前に市が立った。それはやがて定住店舗化し、地方の荘園(しょうえん)から届けられる生産物や工芸品、舶来品が交換され、都市の萌芽(ほうが)となった。やがて地方では豪族の居館を中心に館(やかた)町が発達した。鎌倉幕府が開かれて、鎌倉が政治の中心地となると、若宮大路がつくられ、それをもとに京都に倣って計画的な町づくりが図られた。幕府は1265年(文永2)に大町、小町をはじめ七つの地区を町屋御免地として整理し、和賀江湊(わかえみなと)もつくった。このころになると、京都では律令制による市町は衰え、七条、四条、三条が町屋の中心となり、商人たちは座(同業組合)を組織した。座商人が集居する地区が町とされ、そこの豪商が町人とよばれた。このころ地方荘園の産物は、地方市場か中継地で座商人によって転売された。こうして地方市場は町となり、ここで京都や奈良からもたらされる工芸品や武具などが売られた。

 こうして町は発展し、形態によって分類されるようになった。すなわち、門前町(厳島(いつくしま)、身延(みのぶ)など)、寺内(じない)町(吉崎、石山〈大坂〉、貝塚など)が特色あるものとして知られ、また戦国城下町(小田原、山口など)、市立(いちだち)から定住店舗に変わった市場町(大坂周辺の在郷町など)、湊町(博多(はかた)、敦賀(つるが)、伊勢(いせ)大湊など)などがある。

 17世紀初頭に江戸幕府が開かれ、やがて大坂との間に菱垣廻船(ひがきかいせん)が始められ、諸大名の江戸への参勤交代制が確立されて、江戸城下町発展の基礎が整えられた。江戸の町づくりは、「城堅固(しろけんご)」から「所堅固」といわれるごとく、経済中心地としての城下町づくりが基本であった。江戸城を核として大名屋敷、一般武家屋敷、町屋などに区分する地域制が強調された。町屋は同職集居を本則として営業種目を冠した町名がつけられ、特権商人中心の経済活動が目だった。江戸時代にはまた江戸と全国城下町を結ぶ街道、そして宿場町も整えられた。宿場町では両端の見付(みつけ)の間に本陣・脇(わき)本陣をはじめ多くの旅籠(はたご)ができ、問屋場によって街道通行に必要な人馬が割り当てられ、これらが集まる地区が宿場町の中心地としてにぎわっていた。宿場町はもともと街道通行の人馬に対するサービス提供が主要機能であったが、江戸中期以後になると、その周辺地域の生産物資の加工や売買(流通)の機能をも果たすようになった。また山地(山方)と平野(里方)との境界地域の谷口では、そうした流通・加工業の発達が目だち、とくに谷口町(谷口集落)とよばれる。江戸時代には新田開発がよく進められ、新田地域の流通と中心地機能を果たさせるため、ほぼ数キロメートルから10キロメートル置きに市場町の町立もみられた(礪波(となみ)平野など)。

[浅香幸雄]

『豊田武著『日本の封建都市』(1952・岩波書店)』『浅香幸雄著『中世の集落・近世の都市』(『新地理講座 第七巻』所収・1953・朝倉書店)』『松本豊寿著『城下町の歴史地理学的研究』(1967・吉川弘文館)』

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