白鳳美術(読み)はくほうびじゅつ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「白鳳美術」の意味・わかりやすい解説

白鳳美術
はくほうびじゅつ

飛鳥(あすか)美術に続く日本美術史上の一区分。「白鳳」の名は孝徳(こうとく)天皇の白雉(はくち)という年号(650~654)の別称。岡倉天心による「天智(てんじ)時代」という時代区分を踏まえ、1910年(明治43)中川忠順(ただより)がロンドンで開かれた日英博覧会の際用いたのが最初といわれる。その範囲については、大化改新(645)から平城遷都(710)までの65年間とするのが一般である。

 この時代は前代に引き続き、天皇や豪族による造寺・造仏が盛んであった。天智天皇による近江(おうみ)崇福寺(すうふくじ)をはじめ、天武(てんむ)天皇の大官大寺(だいかんだいじ)の建立、さらに持統(じとう)天皇の藤原京造営、続いて藤原京の薬師寺堂塔の完成(698)など、仏教は隆盛の一途をたどった。それまで朝鮮を経由して入ってきた大陸の美術様式は、遣唐使によって直接中国からもたらされるようになり、また百済(くだら)や高句麗(こうくり)が新羅(しらぎ)によって滅ぼされると、母国を追われた多くの渡来人が進んだ技術や新様式を伝えるようになり、この時代の美術はきわめて多様化され、複雑な様相を呈するに至った。その流れを解明するためには、壬申(じんしん)の乱後の天武天皇の即位(672)を境に、前後二期に区分してみるのがわかりやすい。前期はまだ飛鳥時代の名残(なごり)をとどめているが、後期になると中国の隋(ずい)と唐代初めの影響が濃くなる。

[永井信一]

彫刻

この時代の彫刻も、飛鳥時代と同様、仏像が主であるが、大陸文化の新たな影響から、より現実的な人体観察に基づいたものになっていった。

 白鳳前期の彫刻の基準作例としては、まず法隆寺献納宝物(東京国立博物館)のいわゆる四十八体仏から二つの金銅仏があげられる。一つは台座に辛亥(しんがい)年(651)の銘をもつ金銅菩薩(ぼさつ)立像で、左右相称のつくり、宝珠を持つ手つき、細い体つきなどに飛鳥風の古い要素をとどめてはいるが、顔つきや鋳造技術の巧緻(こうち)さに新しい息吹を感じさせる。もう一つは金銅菩薩半跏(はんか)像で、これは台座に、丙寅(へいいん)年に高屋大夫が亡妻阿麻古のために造立したと解される銘があり、丙寅年は666年(天智天皇5)とする説が有力である。おそらく大陸からの渡来人によってつくられたものと思われ、先の立像と同じ特色をもっている。さらに、同じ丙寅年銘をもつものに、大阪野中寺(やちゅうじ)の金銅弥勒(みろく)菩薩半跏像がある。これは、台座に橘(たちばな)寺の智識たちが天皇のために造立した「菩薩像」であることが明記してある点からも、白鳳仏として重要な意味をもつ。飛鳥仏にはなかった三面頭飾は中国の北周・北斉(ほくせい)の仏像によくみられるものであり、表情からも古拙の笑いが消え、自然さを増した肉づけや、左右相称を破った衣文(えもん)にみられる連珠文にも、大陸からの影響をうかがうことができ、法隆寺献納宝物の例とは異なった新しい特色が示されている。

 このころから、造像に際し塑像(そぞう)と乾漆(かんしつ)像の技法が用いられ始めたことは、川原寺(かわらでら)(667年以前の創建)の裏山遺跡からの出土品によって推定されるが、これらの新技法は、金銅仏制作に比べて作業も簡単で、また捻塑(ねんそ)的な性格は写実性を増した新様式の受容にも適していた。681年(天武天皇10)ごろの制作とみられる當麻(たいま)寺金堂の本尊弥勒仏坐像(ざぞう)(塑像)は、どっしりとした重量感にあふれ、衣文も自然さを増し、前代までのものと大きく異なる。とくに頭部のつくりには、大陸の石仏の影響が顕著である。同じ金堂内には本尊とほぼ同じころのものとされる乾漆造の四天王像があり、胸を張り腰を引く姿勢には、法隆寺四天王像よりも進んだ新様式をみることができる。

 白鳳後期の金銅仏の基準作例としては、まず興福寺の仏頭があげられる。これは、冤罪(えんざい)で自殺を余儀なくされた蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだのいしかわのまろ)のため、678年(天武天皇7)に発願され、685年に完成した山田寺講堂銅造薬師(やくし)三尊像中尊の頭部。大きく弧を描く眉(まゆ)、上瞼(まぶた)の強い線、まっすぐな鼻筋、端正な明るい面だち、豊潤な量塊性などは、飛鳥彫刻より立体化の進んだ白鳳仏の典型を具現しているものといえ、中国隋代の仏像との共通性も指摘されている。同様の表現は島根鰐淵寺(がくえんじ)の観音(かんのん)菩薩立像、兵庫鶴林寺(かくりんじ)の聖観音(しょうかんのん)立像、同一乗寺の聖観音像、東京深大寺(じんだいじ)の釈迦如来倚像(しゃかにょらいいぞう)、千葉竜角(りゅうかく)寺の薬師如来像(頭部のみ)などにもみられ、興福寺仏頭とほぼ同じころのものと思われる。また、このように大和(やまと)地方に限らず、東国、西国の地方にまで遺品のみられるのも白鳳期の特色である。地方の豪族がその土地に定住した渡来人の力を借りて寺院を建てたことは、寺址(じし)から出土した瓦(かわら)や塑像の断片からも知ることができる。地方の古寺に伝わる白鳳仏は、こういった寺院に安置されていたものであろう。

 また白鳳後期の代表的作例としては、法隆寺の金銅阿弥陀(あみだ)三尊像(橘夫人念持仏(たちばなふじんねんじぶつ))、同じく夢違(ゆめちがい)観音像を逸することはできない。前記作例のように年紀銘はないが、いずれも7世紀末ごろの制作と考えられ、肉づけの微妙さや衣文の流麗さに初唐の影響がうかがわれ、とくに橘夫人念持仏の後屏(こうびょう)や台座下蓮池の意匠は、同寺の金銅透彫灌頂幡(すかしぼりかんじょうばん)(東京国立博物館。金属工芸)とともに、当代金工技術の粋(すい)を示したものである。

[永井信一]

絵画

白鳳様式の絵画は遺品も少なく、彫刻よりもその展開過程をたどることはむずかしいが、7世紀末の制作と認められる法隆寺の壁画と、700年前後のものと考えられる高松塚古墳壁画によって、初唐文化の流入がわが国の絵画に与えた強い影響と新様式の一端を知ることができる。

 高松塚古墳壁画は、盛装した四組の男女の風俗図のほか、日月(じつげつ)・星宿(せいしゅく)・四神(ししん)を美しい彩色で表したもので、その洗練された画風は初唐の人物画の流れをくむが、大まかな色面処理、簡潔な描線、平面化した群像構成などに、日本化された画趣も見受けられる。法隆寺の壁画は、金堂の大小12面と、長押(なげし)上の飛天を描いた20の小壁、さらに近年五重塔から発見されたものよりなるが、金堂の四方四仏浄土・諸菩薩図の12面は、1949年(昭和24)の火災で大きな損傷を受け、再現模写によって原画の偉観がしのばれる。これは日本絵画史上の、最初の本格的遺品であり、仏菩薩の体躯(たいく)や着衣のひだの部分に隈取(くまどり)(ぼかし)を施して立体感をみせる技法や、紅褐色の弾力性に富んだ輪郭線を用いた鉄線描などは、西域(せいいき)を介して中国に伝わり、さらにわが国にもたらされたものだが、それらを消化し、練達した技法によって芸術性を高めている点、画期的といえるものである。飛鳥時代の玉虫厨子(たまむしずし)に描かれた人物が非現実的な細身であったのに比べ、ここでは理想的な肉体をもった、人間としての仏像表現が実現されており、仏像の様式の変化と通じる新様式をみることができる。

[永井信一]

『久野健著『白鳳の美術』(1978・六興出版)』


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改訂新版 世界大百科事典 「白鳳美術」の意味・わかりやすい解説

白鳳美術 (はくほうびじゅつ)

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世界大百科事典(旧版)内の白鳳美術の言及

【奈良時代美術】より

…この時代は,隋以後に新登場した唐の影響をうけ,美術においても画期的な発展をとげた。従来この時代は,美術史上,平城京遷都の710年(和銅3)を境に,奈良前期(白鳳美術)と奈良後期(天平美術)に2分して説かれることが多かった。これを前・後期をつらねて奈良時代美術とするのは,この時代に律令国家の所産としての,唐代美術の一貫した様式の流れを認めようとする立場に立つものである。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」