奈良時代美術(読み)ならじだいびじゅつ

改訂新版 世界大百科事典 「奈良時代美術」の意味・わかりやすい解説

奈良時代美術 (ならじだいびじゅつ)

一般に奈良時代美術と称するさいの美術史上の区分は,大化改新(645)から平安京遷都(794)に至る,約1世紀半にわたる時代である。この時代は,隋以後に新登場した唐の影響をうけ,美術においても画期的な発展をとげた。従来この時代は,美術史上,平城京遷都の710年(和銅3)を境に,奈良前期(白鳳美術)と奈良後期(天平美術)に2分して説かれることが多かった。これを前・後期をつらねて奈良時代美術とするのは,この時代に律令国家の所産としての,唐代美術の一貫した様式の流れを認めようとする立場に立つものである。これに対して特に白鳳美術,天平美術と分けて称するのは,それぞれに独自の様式の意義を認めようとするものであるが,時に応じて併用しているのが実状である。ここでは白鳳美術,天平美術という後者の区分をとるが,白鳳美術(奈良前期美術)の発端については,従来の大化改新をとらず,美術史諸説の様式観や種々の遺品を参酌することによって,663年(天智2)の白村江の戦あたりにおく。

〈白鳳〉は650年に白雉献上を瑞祥としてつけられた年号〈白雉〉の美称にすぎず,時代的には奈良時代前期をおおうものではない。しかし〈白鳳〉が唐文化を摂取して新たに羽ばたくこの時代のシンボルにふさわしいとして,愛称されてきたのである。白鳳美術の発端を白村江の敗戦とするゆえんは,天智朝(662-671)はわずか10年に満たないものの,この時代,新たに初唐様式を積極的に摂取しようとした点に,文化史・美術史上の画期を求めようとするためである。

白村江の敗戦後,天智朝は大野城はじめ各地に山城(さんじよう)を築き,近江大津宮へ遷都するなど防備を厳にしながら,律令国家建設にひたむきな前進をとげようとする。百済滅亡後,多数渡来した百済人や,その後の半島の不安定な状況を反映する唐,新羅,高句麗からの頻繁な遣使を通して,初唐の新技術が導入されたと考えられる。この時代のものとして丙寅(666)銘のある2体の弥勒菩薩半跏像(法隆寺献納宝物,大阪野中寺)があり,三面頭飾やほのかな肉づけに,旧様をふまえながらも北斉・北周の様式からの新様がみられる。

川原(かわら)寺は1957年の発掘によって近江遷都以前の創建とみなされ,中金堂の前庭に塔と金堂が向かい合う伽藍配置,従来の高麗(こま)尺に対して唐尺の採用が明らかにされた。

 礎石は花コウ岩と大理石(金堂のみ)を用い,鐙(あぶみ)瓦も素弁,単弁から初めて複弁蓮華の出現をみる。中房が大きく,蓮子も大型で,ふっくらとした2個の子葉が巡り,量感にみちた造形は,まさに唐代彫刻に通う彫塑性を有する。この様式は近江大津宮造営に伴う南滋賀廃寺にもみられ,天智朝にもたらされたものであろう。また74年の発掘により,川原寺北西方の裏山から多量の塑像断片や塼仏せんぶつ)が出土した。塑像断片中にはリアルで張りのある斬新な造形感覚が認められる。塼仏は中尊の柔軟な薄裳をまとった肢体や,天衣を翻転させながら天蓋の左右に舞う天人などに,隋~初唐の敦煌壁画との類似がみられる。これらが天智朝創建時のものとすれば,最新の様式が流入していたと考えられ,新様式受容の迅速さに驚かされる。このほか668年(天智7)百済大寺に乾漆丈六釈迦像が造られたことが《大安寺伽藍縁起幷流記資財帳》より知れるが,乾漆像として日本最古の史料であり,天平時代に盛行する乾漆技術が,すでに天智朝にその成果を結実していたのである。

前代の木彫像や金銅像に対して,塑像,塼仏,乾漆像などがにわかに登場するのは何を意味するのであろうか。川原寺の蓮華文瓦も,小塑像や塼仏も型による製作であり,ことに塼仏中には唐代塼仏と同型によるものがある。石窟寺院のない日本において,原料が豊富で速製可能な塑像や塼仏は,量産には恰好の技法であった。さらに塑像に麻布をかけ,漆を塗って乾燥し,内部の粘土を抜く脱活乾漆像も,金銅仏に比すれば製作は容易である。また塼仏の手法を金属に置き換えたのが押出仏(おしだしぶつ)である。鋳型の上に薄い銅板をのせ,鎚によって打ち出すもので,これも量産に適している。再建法隆寺では,金堂壁画が大陸請来の〈捻紙(ねんし)の法〉で描かれた。炭化させた瓢を酒に溶き,これを塗布した紙,すなわち捻紙を用いる一種のカーボン転写法である。このように白鳳美術は〈型の美術〉ともいい得るほどに量産化が求められ,その原点は天智朝にあった。〈型〉による迅速化が要求されるほどに初唐様式が急速に導入された天智朝は,新時代への画期をなすものといえよう。

天武朝(672-686)から律令国家の本格的形成がなされる。仏教に対しても統制的施策が相次いで行われた。まず仏教教典の充実がはかられ,官の大寺の造営が始められた。673年(天武2)造高市(たけち)大寺司を任命し,翌年百済大寺を飛鳥高市に移して高市大寺とし,さらに677年大官大寺と改称した。このほか貴族の氏寺造営も盛んとなり,679年に諸寺の寺号が和風から漢風に改められた。683年には僧正,僧都,律師が任ぜられる。これら国家による仏教の統制は,造寺司の設立と,そこに働く工人の立法的な組織化に至る。

この時代の彫刻は,丈六像などの大・中像のほか,小金銅仏が法隆寺や東京国立博物館(法隆寺献納宝物,四十八体仏)をはじめ諸所にかなり遺存し,主要作品では求め得ない様式の欠を補うことができる。奈良法輪寺の薬師如来座像は木造で,着衣法に特色がある。この形式は北斉・北周期(550-581)にみられるが,この着衣形式あるいは類似の着衣形式を有し,様式も似通う像が法隆寺献納宝物の小金銅仏にみられる。銅造如来座像(147号),銅造阿弥陀三尊像(〈山田殿〉銘,144号),童子形像と称される銅造如来立像(153号),観音菩薩立像(179号),菩薩立像(188号)などがそれである。〈山田殿〉像は童子形像以下の3像と,如来の着衣形式のみならず,菩薩形像の着衣や三面頭飾,瓔珞(ようらく)などの荘厳(しようごん)まで類似し,特殊な連点鏨(れんてんたがね)の使用や鋳造法にも共通性がある。すなわち法輪寺薬師如来座像,〈山田殿〉像,童子形像の間には親縁関係が認められるのである。

 これら小金銅仏が白鳳初期の様式を存し,法輪寺の創建も,法隆寺被災(670)以後となると,これらの像の造立も天智および天武朝の初期ころとみなされよう。法輪寺薬師如来像の着衣形式は銅造如来倚像(148号)をへて法隆寺橘夫人念持仏像につらなる。一方,童子形像は法隆寺や法隆寺献納宝物の小金銅仏,法隆寺の木造六観音像などに類似の遺例は多く,すべて法隆寺に関係が深い。上瞼(まぶた)が重く,鼻下が長く,下唇の厚い,愛らしい童顔をした一連の像で,これらの台座の文様が,すべて再建法隆寺の瓦(子葉の平板な複弁蓮華文瓦)の文様と一致するとともに,再建法隆寺金堂天蓋の木造天人群が,すべて童子形であることとも相まって,これらの像が再建法隆寺と緊密な関係にあることは注目される。

 このほかこの時期のものとして,東京深大寺の釈迦如来倚像は,丸い顔,なだらかな起伏のある体軀に,リズミカルな衣文がゆるやかに波打つ,抒情性豊かな像であり,兵庫鶴林寺の銅造観世音菩薩立像はまろやかな顔に個性的な表情がうかがえ,腰のひねりや手の指先に軽快な動きの伝わる隋様の像である。興福寺に伝存する仏頭は旧山田寺の薬師三尊像の中尊で,天武朝後半期679-686年の造立になる。切れ長の眉,直線的な下瞼と円曲する上瞼に区切られた眼に,遠くを見やる憧憬的な明るさが漂う反面,広い額に弾力のある顔,引きしまった唇に充実感のある迫力を感ずるところに隋から初唐への動きがうかがえる。

 長谷寺の《銅板法華説相図》は〈法華経見塔品〉にもとづく銅板浮彫像であるが,空間は押出仏の千仏が貼り付けられ,如来,菩薩などは丸みが加わり,隋様式の進展がみられる。当麻寺の弥勒如来座像は塑造・漆箔の像で,張りのある頭部や,隆起する衣文に包まれた厚い胸や膝など,白鳳の流麗な軽快さを脱して,量感ある初唐への過渡的様相を示すが,同寺の乾漆四天王像にも同様な特色がみられる。法隆寺の銅造夢違観音像は,頭飾や瓔珞(ようらく)など初唐様を受容しながら,優美に整えられた微妙な像容の表現に,日本的情趣さえ感ずる。薬師寺の薬師三尊像は,旧山田寺仏頭や当麻寺弥勒仏の隋・唐様式よりも,より完成された初唐様式を有するため,造立年代については諸説ある。ここでは川原寺塑像の初唐様式の先進性や,法隆寺金堂壁画との類似などから,一応藤原京本尊説,すなわち688年(持統2)ころをとることにする。薬師寺の東院堂聖観音像は初唐様を受容した薬師三尊像に通う像であるが,体軀や天衣は古様の左右相称を厳守した薬師三尊像に先行する様式を有し,法隆寺金堂壁画の12号壁の十一面観音像との類似が説かれている。白鳳彫刻は天武・持統朝(672-697)に燃焼しつくした感があり,平城京遷都までの文武天皇より元明天皇に至る10余年間にはみるべきものがない。

彫刻に比して絵画の遺品は皆無に近い。おもなものに仏画では法隆寺金堂壁画,世俗画では高松塚古墳の壁画があるにすぎない。法隆寺金堂壁画の制作年代には諸説あるが,現存する黄地平絹幡(ばん)(法隆寺献納宝物)が持統6年(692)に法隆寺へ献納されたとの銘文をもち,《法隆寺資財帳》が同7年に天蓋を,同9年に金光明経を法隆寺に下賜されたと伝えるなど,この時期に関係史料が集中している。670年(元智9)に被災した法隆寺もこのころには一応の仏事が行われていたと思われ,685年(天武15)ころから690年(持統4)ころまでに壁画が制作されていた公算は大きい。この金堂12壁の壁画は敦煌壁画のうち,隋~初唐にかけてのものに照応する。しかし天智朝に派遣された遣唐使(第5~6次)が670年(天智9)前後に帰朝して以来,702年(大宝2)の第7次遣唐使まで,30余年間は公式な唐との交流が途絶していた。この時期に隈取の陰影法や鉄線描などの新技法を伴う初唐様式で金堂壁画が描かれたことは,新羅経由による粉本や工人の流入なしに不可能であり,唐文化をいち早く摂取した新羅は,当時の日本にとって重要な存在であった。

 1972年に発見された高松塚古墳壁画は,従来知られなかった男女の風俗図,四神や星宿を描いたもので,高句麗の墳墓壁画や初唐末の永泰公主墓につらなるものとして,アジア史的観点からもその意義は大きい。7世紀末から8世紀初めの作とみなされている。また1983年には飛鳥のキトラ古墳において,玄武の壁画が確認されている。

金工ではまず京都妙心寺と福岡観世音寺の梵鐘があげられる。両者は同一規格で鋳造され,妙心寺鐘は戊戌(698)の銘がある。法隆寺献納宝物中には大灌頂幡と金銅小幡があり,前者は飛鳥様式に新様を加味し,後者は透彫文様に隋様がみられる。舎利容器としては大津の崇福寺址出土のもの(近江神宮)や法隆寺五重塔心礎のものが知られる。また薬師寺東塔水煙は,透彫で天人の舞う姿を表し,ことに放射状に翻るその天衣の美しさは特筆すべきものである。漆工では橘夫人厨子や正倉院の文欟木厨子(天武天皇より伝世という)がある(厨子)。染織では観修寺旧蔵の《刺繡釈迦如来説法図》(奈良国立博物館)がある。唐での制作とする説もあるが,法隆寺金堂壁画に類する初唐絵画様式がみられる(繡仏)。このほか染織品はきわめて少ないが,法隆寺献納宝物中には経錦(たてにしき),絣,刺繡などの古代裂がまとまって伝存し,法会の幡も各種存して貴重である。
法隆寺

710年(和銅3)の平城遷都より794年(延暦13)の平安遷都までの美術を奈良後期(奈良本期)美術とするが,盛唐の古典形式をうけ,天平年間(729-749)を中心に独自の美術を展開したため,この時代の美術を天平美術と称する。そして天平美術は,次の3期に分かつことができる。

(1)前期 平城遷都より玄昉(げんぼう)帰朝の前年,734年(天平6)に至る間。飛鳥や藤原京にあった寺院が,いっせいに平城京に移転した時期で,藤原氏の氏寺の厩坂(うまやさか)寺も東の外京に移建されて興福寺となった。さらに新都の造営は,新たな唐様式を導入した寺院や仏像の造立を活発化した。前代の702年(大宝2),30年ぶりに復活した遣唐使(第7次)は704年(慶雲1)に帰国し,717年(養老1)には第8次遣唐使が派遣され,翌年,第7次で渡唐していた道慈らの僧を伴って帰国した。この時期に則天武后から玄宗の最初期ころに至る唐の新様式がもたらされたと思われる。

(2)盛期 第8次で渡唐した玄昉,吉備真備らの留学生が帰朝する735年(天平7)より,鑑真が唐招提寺を創立する前年の758年(天平宝字2)まで。玄昉によって初めて,玄奘の新訳による経典を含む一切経が請来された。また736年には天竺僧菩提僊那(ぼだいせんな),林邑僧仏哲ら,南インドやベトナムの僧が来朝した。この時期は唐代美術もその最盛期にあたり,優れた唐の古典様式を積極的に摂取し,日本の特色を生かした天平美術の精華が発揮された。740年(天平12)までの間,天然痘の大流行や藤原広嗣の乱など社会的に不安定な状況のもとで,国ごとの造寺・造仏,また写経の詔が発せられ,国分寺造立へと向かう。そして741年,諸国に国分寺および国分尼寺建立の詔が出され,また大仏造立の詔が発せられた。造東大寺司の大機構のもとに大仏鋳造をはじめ,堂塔,仏像,荘厳具,仏器・仏具,壁画,大繡帳などが大規模に制作された。これらはその素材や技法が多岐にわたるばかりでなく,様式も唐や遠くシルクロードの国々の影響をうけ,同時代中国の美術と遜色ないほどの高度なものが制作された。

(3)後期 759年(天平宝字3)唐招提寺創立より,平安遷都前年の793年(延暦12)に至る間。この時期,唐は衰退期に当たるが,761年,778-779年(宝亀9-10),781年(天応1)の3度にわたり遣唐船が帰朝しており,この間も唐文化が伝えられていた。また鑑真に随行した工人によっても特色ある新様式の木彫群が製作されたが,765年(天平神護1)に西大寺が創設され,密教像も造像されるようになる。今日残された東大寺法華堂,戒壇院などの彫刻群や正倉院の工芸品をはじめとする優品は,唐の影響や渡来工人の新技術によることはいうまでもないが,律令制下における総括的で緊密な工人組織によって初めて可能であった。なお766年には伊勢神宮寺に丈六仏が造られるなど,神仏習合思想による造寺・造仏が,このころに現れ始める。

律令制下においては,工人たちはいずれかの官司に所属して製作活動に従事し,後世のごとき個人的な作家活動とは本質的に異なっていた。表は美術作品のかげにかくれた工人たちが,いかなる部署に組み込まれていたものかを職員令の省-寮-司の官司体系のうえに一覧するものである。表に挙げた諸組織のほか,造寺・造仏等のごとき造営作業には,職員令の規定以外に臨時に造寺司が設けられた。造寺司については百済大寺造営が早く,白鳳時代には造薬師寺司,造大安寺司,天平時代になると造東大寺司のほか,造法華寺司,造西大寺司等があり,より小規模のものには造寺所が設けられた。各造寺司の工人は司工(造寺司直属工人,また各省の兼務工人),雇工(臨時雇の民間工人),様工(在地工人を率いる請負工)等がある。東大寺司には工人を統轄するために,建築には大工,鋳造に大鋳師,仏像には大仏師が設けられた。工人の工程は細分化され,将領や長上工の指揮下に,各種の工人たちは仕事の性質に応じて合理的に配分される。画工司に例をとれば,分担作業として塗白土,堺,彩色,木画,検見(けみ)などがある。工人には延べ日数に応じて功銭(日給)が支払われるが,仏工がきわめて高いことなど,専門技術の高低によってかなりの賃金格差がみられる。また現場の作業は,造東大寺司においては,造仏所,木工所,造瓦所,写経所,山作所などの〈所〉の機構を通して行われた。752年(天平勝宝4)の六宗厨子6基は,その破片の扉絵が正倉院に収められており,《正倉院文書》によって扉ごとの絵師の分担がわかり,画師の分業の実態がうかがわれる。また正倉院《大大論》に写経生のデッサンがあり,唐招提寺梵天像の台座には,似顔絵や兎,蛙などさまざまな戯画がみられ,ひと息入れた手すさびのなかに,写経生や仏師の生態の一面を垣間見る思いがする。

彫刻

天平彫刻の最初の遺品に,711年(和銅4)造立の法隆寺五重塔の塔本四面具と称される塑像群と,中門の金剛力士像がある。塔本四面具は,塔初層中央の須弥山(しゆみせん)を中心に,東面(維摩居士,文殊),北面(涅槃),西面(分舎利),南面(弥勒浄土)に100体近い小塑像群が配されている。白鳳彫刻の明るい抒情性を受けつぎ自由な表現を示すが,感情の表出や衣文の細部には写実への追求が認められる。734年(天平6)造立の興福寺西金堂の十大弟子,八部衆像は,乾漆造に彩色・漆箔を施した等身よりやや小型の群像で,塔本像の様式をつぐものであるが,乾漆像特有のおだやかさのなかに,老若,哀愁など,より写実への深化がうかがわれる。像身は細身で直立に近く,量感に乏しいが,その表出には次の盛期を待たねばならない。

746年(天平18)ころの造立とみられるものに,東大寺法華堂(三月堂)の諸尊がある。中央本尊の不空羂索(けんじやく)観音像を中心に梵天・帝釈天像,金剛力士像,四天王像などの乾漆像が並立する。堂内にはこのほか塑像群がある。本尊像背後の厨子内に秘仏として安置されている執金剛神像,本尊前の両脇に伝日光・月光菩薩像,本尊背後の両脇の厨子内に吉祥天・弁財天像がまつられている。また戒壇堂には塑造四天王像がある。このうち伝日光・月光菩薩像は,戒壇堂安置の塑造四天王像に類似し,これらはもと東大寺内の他の堂宇に安置されていたものであろう。本尊以下の乾漆像は,おおらかななかに細部にまで行き届いた調和のある写実性があり,天平彫刻古典様式の熟成が認められる。これに対して伝日光・月光像は,その造形に法華堂本尊に通うものがあるが繊細な温雅さがあり,乾漆像が唐代全盛の気宇壮大な様式を伝えているのに対して,伝日光・月光像はこれらの様式を消化したこの時代の和様像となす向きもある。

 また天平年間の造立とみなされるものに,新薬師寺の十二神将像がある。塑像の白土下地に彩色および漆箔仕上げが施されている。各像の憤怒の表現は大胆・率直であり,強調が行われる反面,細部に簡略化がみられ,表現に緻密さのある戒壇堂四天王像とは流派を異にする。東大寺の大仏は3ヵ年,8度の鋳造によって,749年(天平勝宝1)に鋳上げられたが,その後の災火により,当初のものは右腋下から下腹部,両腕に懸る袖,両脚部あたりと蓮華座にすぎない。蓮華座の蓮弁線刻については後述する。大仏殿前の銅灯籠火袋扉の奏楽菩薩像や同寺の誕生釈迦像は,大仏開眼時の天平盛期の様式をよく示している。
東大寺

唐招提寺の金堂が建てられたのは776-777年(宝亀7-8)ころとみなされるが,金堂本尊の乾漆漆箔造の盧舎那仏像は,盛時の仏像に比し,森厳な重厚感を漂わせ新様式の特色がうかがわれる。このほか唐招提寺には伝薬師如来像,伝獅子吼菩薩像などの一連の木彫像がある。これらの像に共通する特徴は,盛り上がる体軀を,のびやかななかに緊りをもって量感豊かにとらえており,細部には中国で発展した檀像彫刻の趣がみえる。従来の天平彫刻と異質な唐の新様式がみられるが,おそらく鑑真随伴の工人によってもたらされたものであろう。この時期の法隆寺西円堂の丈六薬師像,同伝法堂の3組の阿弥陀三尊像,大阪葛井寺の千手観音像,岐阜美江寺十一面観音像など,しだいに地方にまで天平彫刻が浸透し,和風化してゆくのである。

仏像の細部にまで写実の眼を深化させた天平彫刻の必然的な動向として,僧侶の肖像彫刻が製作されるようになる。763年(天平宝字7)に写された影像により造られたとする鑑真和上像や,767年(神護景雲1)ころに造られたと思われる夢殿の行信僧都像があるが,鑑真像が瞑目し定印を結ぶ静けさに対して,行信像は目をつり上げ唇を厳しく結び,ずっしりとした体軀の精悍さを,乾漆の特性を生かしてよく写し出している。この時代の伎楽面や獅子頭は,東大寺および正倉院に伝来し,752年(天平勝宝4)の大仏開眼会に用いられたものが中心で,そのほか法隆寺や東京国立博物館(法隆寺宝物館)に存する。

絵画

平城遷都に伴う寺院の移転によって,移動不可能な壁画は描き直さねばならなかったが,壁画の代りに懸ける繡仏や障子絵は一部移されたものと思われる。736年(天平8)大安寺金堂壁に羅漢像等が描かれ,742年には《華厳七処九会図》と《大般若四処十六会図》の2繡帳が,道慈によって造られた。興福寺には710年(和銅3)以降,中金堂(721),東金堂(726),五重塔(730),西金堂(734)が相次いで建立され,761年(天平宝字5)には,東院西堂に恵美押勝(藤原仲麻呂)が亡き光明皇后のため繡阿弥陀浄土,繡補陀落(ふだらく)浄土の2鋪を寄進した。また東大寺大仏殿には聖観音と不空羂索観音の曼荼羅の巨大な繡帳(各高5丈4尺,幅3丈8尺4寸)が懸けられていた。その他,法隆寺,大安寺,西大寺などの資財帳類や《正倉院文書》等によって,多数の仏画が知られる。なかでも〈変〉(変相図)が多く,特に浄土変が流行した。今わずかに《法華堂根本曼荼羅》(ボストン美術館。東大寺法華堂旧蔵),綴織《当麻曼荼羅》(当麻寺)に往時をしのぶことができる。前者は麻布に描かれ,山水を背景に釈迦の左右に菩薩,比丘形がめぐる,法華経に説く霊鷲山(りようじゆせん)説法図が描かれている。肉身は白肉色に朱の隈取と朱線の鉄線描によって描き起こされ,半円の眉や引きしまった体軀は唐様を示し,背景の山水は重畳として複雑な構成を示す。後者は典型的な巨大な浄土変相図で,刺繡と異なる綴織の高度の技術で作られたところに特色があるが,破損著しく下部はほとんど欠失する。初唐から盛唐にかけて発達した浄土変の一種で,8世紀中ごろの敦煌壁画に類似の浄土変相図を見いだすことができる。

東大寺大仏の蓮弁には《蓮華蔵世界図》が線刻され,上半部に仏説話図,中間部に二十五天,下半部には須弥山と四大洲が描かれ,所依の経典については〈華厳経〉〈梵網経〉の2説がある。釈迦の面相は豊満な張りを見せ,腰はしまり,身はうねるような力強い鉄線描の衣文線で包まれ,鏨(たがね)による線刻画の迫力と相まって,盛唐の絵画様式の特色をよく反映している。これと類似の図様を有する線刻画に〈二月堂光背〉がある。本尊は1667年(寛文7)に焼失したが,光背は断片的ながら遺存する。これら変相図の大画面に対して《過去現在因果経》がある。釈迦の伝記〈仏伝〉を説いたもので,下段に経文,上段に対応する絵を,朱,丹,群青,雌黄,鉛白などの原色を用いて素朴に描き,絵巻形式の説話画として,のちの絵巻物への展開を示唆して注目される(絵因果経)。天平後期には唐招提寺,西大寺の造立が進められたが,この時期の作品はほとんど現存しない。《吉祥天像》(薬師寺)は麻布着色の吉祥悔過(けか)の本尊で,衣の裙や天衣が風になびき,ふくよかな頰に,しまった口もとなど,唐美人画の流れをよく伝え,8世紀末の作である。
華厳経美術

正倉院には菩薩像を描いた絹絵彩色幡や,麻布に力強い墨線で闊達に描いた《麻布菩薩像》などがあるが,東大寺大仏開眼会などに用いられたものである。《東大寺献物帳》によれば,正倉院には仏画のほかに各種の山水画や世俗画があったことが知られるが,遺存するもので有名なものに《鳥毛立女屛風(とりげりつじよのびようぶ)》が六扇そろっている。貼り付けられていた羽毛はほとんど剝げ落ちているが,唐朝風婦人の肉色には彩色が施され,柔らかな細線描写の下描きの素描がおおまかに墨描されており,西域画にみられる樹下美人図形式を踏襲している。唐朝の平遠山水風に麻布に描かれた白描の墨絵や,周囲に山水の描かれた《東大寺山界四至図》のほかに琵琶や阮咸(げんかん)などの楽器の捍撥(かんぱち),すなわち撥のあたる皮張りの表面に濃彩画がある。また水精荘沈香木画箱や,蘇芳染金銀山水絵箱には金銀泥絵の山水画がみられる。757年(天平勝宝7)の密陀絵(みつだえ)盆には花鳥が描かれるなど,正倉院工芸には山水,花鳥,人物など,文様的に意匠化されている。これらの描法の中には,平安時代の《山水(せんずい)屛風》(東寺)や宇治平等院鳳凰堂扉絵などに展開していくものがあり,平安絵画の源流をなすものとして注目される。

造寺・造仏とともに,写経事業が全盛をきわめた。公私にわたる写経所が設けられ,経師,校正,装潢(そうこう)などが写経に従事し,その上の別当,案至などが事務をとった。初期には712年(和銅5)の長屋王願経のように隋様式がみられる。中期は740年(天平12)の光明皇后願経のごとく,盛唐において完成された楷書の謹厳な書体の中におおらかなのびがあり,奈良写経の最盛期を迎える。末期には〈大聖武(おおじようむ)〉の俗称のある〈賢愚経〉(東大寺ほか)の剛直な新写経体がみられる。

 正倉院には731年(天平3)聖武天皇筆《雑集》,744年光明皇后筆《楽毅論》や《杜家立成雑書要略》がある。これらは王羲之の書風をうけている。《東大寺献物帳》によれば王羲之の双鉤塡墨(そうこうてんぼく)の書法20巻が東大寺に献納されているが現存しない。この種の遺品に《喪乱帖》(宮内庁),《孔侍中帖》(前田育徳会)があり,唐代王羲之書風の流行がそのまま日本に伝来していることがよくうかがえる。

工芸

法隆寺,大安寺,西大寺などの資財帳や,《正倉院文書》などには,膨大な数の寺院の供養具や調度具がみられ,造寺・造仏の急増に伴う需要の大きさを示している。唐との交流を通して,工匠の流入による新技術の導入に触発され,日本の工芸技術は飛躍的に成長し,その種類も多様を極めた。この時代の工芸品は,ほとんどが正倉院に伝世し,一部は東京国立博物館(法隆寺宝物館)に収蔵されている。そのほか金工には不空羂索観音宝冠,華原磬(かげんけい)(興福寺),獅子唐草文金銅鉢(岐阜護国寺)などがある。

 正倉院の工芸品の保存はきわめてよく,その種類や技法,材質も多岐にわたり,同一作品中に異なった技法や材料が併用されているものが多い。材質は動・植・鉱物など種類が多く,その原産地もアジア全域にわたる。種類は,仏器・仏具,文房具,調度具,飲食器,服飾品,武器・武具,楽器,遊戯具等。技法も金工,漆工,陶磁工,ガラス(瑠璃)工,木竹牙角工,玉石工,染織工などがある。高価な材料と精妙な技法によって表現される器形も,斬新なデザインをもって変化の限りをつくし,その文様も抽象的な幾何文様から,実在的な自然,動・植物文様,さては空想文様にいたるまで多様をきわめ,文様の配置や組合せは複雑多岐である。これを可能にしたものは,正倉院宝物が奈良盛期の聖武天皇遺愛の品々であるとともに,大仏開眼会の供養の品が中心となったためである。これらによって,アジア文化の精華が結集し,唐,西域,インド,イラン(ササン朝),さらには東ローマにまで至るシルクロード沿いの国々,さてはまた林邑などの南海の国々の影響を目のあたりに開示する。今日もなおその斬新なデザインと最高水準の技術が吸収しうるがゆえに,正倉院宝物の日本工芸史に占める位置はきわめて高い。
正倉院
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白鳳時代は大陸の本格的な建築様式と技術が全国に伝習される時代であり,古い様式の遺存と並行して新しい唐様式の摂取が盛んに行われた。これには唐から直接伝えられたものと,朝鮮半島経由のものがあったらしい。神社建築にも一部に大陸の要素が用いられ始めた。工人の組織や技術,材料や自然環境などの条件から古墳時代以来の古い技術や形式が,純粋な大陸風であるべき建築にもしだいにとり入れられた。天平時代には永続的で完備された都城の平城京を中心に,唐式の宮殿,官衙,寺院が盛んに造営され,きわめて巨大なものや装飾性の高いものも造営された。地方にも仏寺,官衙を中心にこの様式と技術がゆきわたるが,細部の形式には唐本国でみられる多様性はなく,白鳳~天平の間に基本型が選択的に採用されたとみられる。これは日本人の好尚による点と,木工寮,造宮省,造寺司などの造営組織が,少数の熟練者と多数の臨時編成された上番制工人や労役民の組合せを使った古代的な制度のもとで,しかも造営に規格性が要求されるという制約によると考えられる。

 7~8世紀を通じての唐様式の吸収と再編と全国普及によって,後の和様の基本が形成された。天平時代の前半,740年代までは新京の造営と,それに伴う官私大小寺院の移転が主で,白鳳時代からの形式が継続的な影響を残しており,後半に東大寺と諸国国分寺などの大造営が緒についてからは,それ以前と技術にも意匠にも異なった点の見えることから,天平時代をさらに前期と後期に分けて考えることができる。これら白鳳・天平時代の建築については,三十数棟におよぶ現存遺構と,考古学的な遺跡や文献記録からかなり詳しく知ることができる。

白鳳時代から始まる最大の造営事業は,都城と宮殿に関するものであった。645年(大化1)乙巳(いつし)の変以後の難波遷都で巨大な難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや)が造営され(難波宮),大陸風の街区と大路のある都城も計画されたらしい。宮は上町(うえまち)台地の最高点に大殿をおき,内裏と朝堂院を一連の壮大な建築群として縦列した。八角重層の楼殿を東西に配し,内裏正殿が大極殿を兼ねる特異な配置をとる。個々の建物は掘立柱ながら配置などは大陸式によった。官庁街を伴う後の律令制宮殿の先駆となるもので,652年(白雉3)に完成した。天武天皇は律令体制の秩序の実物による表現として都城制確立を目ざし,大和国内に正都を,難波に副都を置くとした。このころ計画され持統朝に完成したのが藤原京で,最初に確立した大陸式都城であった。宮は都の中心北部に置かれ,基壇上に瓦葺きの大陸式宮殿建築によって大極殿,朝堂院,宮城門をつくり,儀式の荘厳も整った。

 寺院建築も歴代天皇による奨励で全国に営まれた。初期は飛鳥時代に発願着工されて継続していたものが多かったが,白鳳期に着工した寺院は数百に増加した。様式的には飛鳥時代以来の旧様式と唐様式が混在して,配置も細部も多様であった。

 官寺では飛鳥川原寺が回廊内に塔と西金堂とをおき,本格的な唐様式の建築を採用した。中金堂は内陣を壁で囲み周囲は吹放しとした。浄土変相図にみる仏殿のような外観に,内陣内壁は塼仏などで荘厳され,石窟寺院内部のようであったらしい。引き続き近江京で造営された崇福寺は丘陵の尾根上に川原寺と類似の配置をもち,堂塔は檜皮(ひわだ)葺きであった。飛鳥時代着工の四天王寺も伽藍の完成はこのころで,講堂は円垂木一軒の扇垂木を用い,鐘楼は袴腰形の基壇をもった。斑鳩寺(法隆寺)の再建は白鳳時代後半にかかり,金堂,塔,中門,回廊,東室を現在も伝えている。飛鳥様式をよく残しているとされるが,伽藍配置,軒の平行角垂木や一部の構造,軒瓦の文様などは白鳳形式である。天武天皇の発願による薬師寺(本薬師寺)は藤原京の条坊にあわせて伽藍が計画され,回廊内に各層に裳階(もこし)をもつ華やかな金堂と東西両塔を置いた。配置は唐にならったとみられるが,唐での実例は知られず,当時親善関係にあった新羅に先例がある。金堂は川原寺同様に内陣を三方壁で閉鎖的につくり,周囲に連子窓の裳階を巡らした。おそらく三手先(みてさき)斗栱を用いたと思われる。白鳳期の寺院には地方にも各種の意匠のものがあり,京都樫原(かたぎはら)には八角三重塔が建てられた。地方の伽藍配置は仏殿と塔を左右に置くものが多かった。

 神社建築では伊勢神宮の式年造替が持統朝から確立した。神宮正殿は掘立柱,高床,切妻茅葺き,棟持柱など弥生式時代以来の形式をもつ軀体と,高欄,飾宝珠,妻の架構,角繁(すみしげ)垂木などは白鳳時代調で,外来様を混じえ法隆寺金堂と類似点がある。大陸との緊張が高まった天智朝から,百済遺臣の指導で筑紫から大和までの要地に石垣や版築の土塁のある山城(さんじよう)などが築かれた。軍事・外交の中心とされた大宰府には防衛線として水城(みずき),大野城,基肄(きい)城が設けられた。山城には礎石つき瓦葺きの倉庫風建物が多数建てられたが,これらはすべて同様な規格によったらしい。
藤原京

いわゆる奈良時代は,地勢上の欠点があり手狭な藤原京を廃し平城京に移った710年(和銅3)から始まる。大和平野北端の理想的な地勢上に幹線道路の下ッ道を朱雀大路に利用し,南北5km,東西6kmに大路・小路を方眼に配し,南面には羅城を築き正面に羅城門を開いた。幅90mの朱雀大路の奥に方1kmを占めて平城宮が置かれ,天皇の住宮殿である内裏,儀式と公式行事の広場をもつ大極殿朝堂院,八省百官の官庁街があり,さらに東に突き出して苑池のある東院があった。宮城門や大極殿,朝堂院は大陸式に基壇をもち瓦葺きの建築であったが,内裏や官庁には掘立柱檜皮葺きが多かった。天皇の代ごとに内裏の位置などに変化があり,聖武天皇の大極殿は三方に楼閣を置き唐風の建築群を構成していた。京内には貴族の邸宅が1町から4町の宅地をもって主要部を占め,建物は掘立柱の大型の主殿・脇殿をもち,苑池を構えるものがあった。貴族邸の建築遺構は法隆寺東院伝法堂に移築改造されている橘夫人(たちばなぶにん)宅の一棟が知られ,高床構造,檜皮葺き切妻造で二重虹梁(こうりよう)蟇股(かえるまた)の架構をもつ。寝殿造における東の対(たい)にあたるとみられる。最高級の貴族邸には寺院にも転用できる高い水準のものがあったことを示している。唐招提寺講堂は平城宮東朝集堂を移築したもので,切妻造の九間堂であった。

 平城京の寺院建立は前期には旧京からの移転が造営の大部分を占め,個々の建築の様式も白鳳期の特徴を残す点が多かった。寺地は京の条坊に合わせて伽藍計画を定め,官の大寺は大路・小路の交点に面して大門を置いた。中心伽藍を条坊の2町四方にぴったり納め,周囲の坪に付属の院を配した。伽藍配置は薬師寺だけが回廊内に金堂と双塔をおく旧寺と同一のものとし,他はすべて塔を回廊外に置く配置となった。特に大安寺は唐の長安西明寺を模したと伝えられ,金堂院の三方を大僧房で囲み,巨大な東西七重塔を六条大路をへだてて南の塔院に置いた。興福寺は藤原氏の私寺であったが,天皇との姻族のため皇室発願による堂宇も多く,川原寺に代わって官大寺同然に扱われた。平城京東端の台地上で元興寺北隣に寺地をとり,中金堂院,東西金堂院に三面僧房をもつ完備したものになった。元興寺は東に大塔院を独立させ,金堂は組物など他と異なる点があったと伝えられ,細部に飛鳥古様を模したかともみられる。薬師寺は旧京と同一の伽藍配置であったが,730年(天平2)完成の東塔が現存している。今日まで伝わる唯一の官大寺の中心建築である。各層に裳階をもつ華麗なシルエットは白鳳期以来の形式とみられ,初期的な三手先斗栱で張り出した大屋根,大型の相輪など優々たる趣を示している。これら大寺の金堂はいずれも外観二重にみえ,正面間数など規模も大きく律令国家仏教の権威と華やかさを示すものであった。どの寺も移建開始から塔の完工まで長年月を要し,元興寺は766年(天平神護2)以後,大安寺は747年(天平19)以後まで塔が竣功しなかった。天平前半期の建築で現存するものは薬師寺東塔,法隆寺西院経蔵・食堂・東大門・東院伝法堂,海竜王寺五重小塔などがある。塔や門は柱に軽い胴張り(エンタシスentasis)がみられ,いずれも柱径にくらべ肘木(ひじき)の割合がやや長目であることなど軽快な趣がある。三手先斗栱には軒支輪がなく,斗の重なりも少なく簡単であった。
平城京

天平後半期は聖武天皇の詔(743)による東大寺の造営に始まる。都城と宮殿が現世の律令国家の中心であるように,仏教宇宙の核としての大毘盧舎那仏を中心に,日本全国に国立の僧寺と尼寺をおいて諸国の仏教秩序をつかさどらせた。初め紫香楽(しがらき)宮で発願着工された大仏の寺は,745年(天平17)平城還都に伴い,京東の丘陵地を削平して造営された。正面86m,側面50m,高さ46m,外観二重屋根の巨大な大仏殿を中心に,高さ97mの七重塔が東西にあった。日本全国に建設された国分僧寺も七重塔をもつ大伽藍で,配置や建築は中央の指導に従っていっせいに造営され,完成には長年月を要した(国分寺)。孝謙天皇の発願による西大寺は八角七重塔を計画したが実現せず,金堂院,四王院,十一面堂院などに分かれ,薬師金堂と弥勒金堂をもち,屋根に多様ではでな装飾を付し,緑釉瓦や三彩垂木先瓦を用いた。私寺の造営も盛んであったが,なかでも唐から来朝した鑑真大和上のため建立された唐招提寺は,今なお当時の寺地を守り,金堂,講堂を伝えて盛時の姿の一端をしのばせる。東西両塔をもつ寺院は各地に建設されたが,両塔とも現存するのは奈良当麻寺のみである(西塔は平安初期)。

 神社にも仏道に帰依して神官寺を発願するものが各地にできた。山岳寺院の先駆的な性格があり,奈良室生竜穴神のための室生寺では,きわめて小型の五重塔が現存している。神社にもやや永続的な神殿建築が設けられ,春日大社や宇佐神宮の神殿成立は天平後半期とみられる。

 この時期の遺構は東大寺法華堂正堂,正倉院宝庫・転害門,新薬師寺本堂,元興寺五重小塔,唐招提寺金堂・講堂,法隆寺東院夢殿,当麻寺東塔,栄山寺八角円堂,室生寺五重塔その他がある。仏殿,塔,門,校倉(あぜくら)等の各種にわたって遺存しているので全般的なようすはわかる。仏殿では一流寺院は外観重層,中小寺院は単層となることが多く,前面柱列を吹放しとする。唐招提寺金堂は前面吹放し,三方を連子窓とし,内部を明るく見せ,前半期の仏殿の閉鎖性は失われている。三手先斗栱は軒支輪のある形に進化し,実(さね)肘木を用いて軒桁を高く保持するようになった。大斗上の肘木長さが,大斗幅の2倍ほどと前期より短くなり,斗栱全体がかさ高い形にまとまる。柱の胴張りはみえなくなり,全体的に形式均質化が進んだ印象を与える。東大寺法華堂は初期密教的な不空羂索観音の聖域である正堂を,まつる人のための礼堂と双堂(ならびどう)として接続したもので,西大寺にも双堂が多かった。法隆寺東院夢殿は聖徳太子をまつる一種の塔廟で,ストゥーパの円形のシンボルとして八角平面につくられ,屋上に舎利瓶(しやりへい)と光線を飾っている。763年(天平宝字7)ころ建立された栄山寺八角円堂も同様な性格をもっていた。東大寺法華堂と夢殿は,天平前期・後期の過渡期につくられたので,組物などに前期ののびのびした感が残り,先端に繰形(くりかた)のある実肘木を用いるなどの共通点がみられる。後期末の唐招提寺金堂や室生寺五重塔などとは微妙に異なるものとなっている。当麻寺東塔は三手先斗栱は完成した形をもつが,二重と三重を柱間2間とし,肘木が比例上やや細長い点は前期的要素も残っている。室生寺五重塔の建立は奈良末期か平安前期か議論がある。最小の五重塔で,上層の逓減は少ないが,檜皮葺きの軒の出は深く,全体のシルエットは整っている。細部の形式は奈良末期としてよい。784年(延暦3)都は長岡京へ遷り,さらに794年にほぼ完成した長岡京は廃されて平安京へ遷都する。建築自体の様式や技術は奈良末から平安初期の間に大変化はなく連続したものとみられ,これが和様の源流となった。
寺院建築 →和様建築
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

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