盛岡八幡宮(読み)もりおかはちまんぐう

日本歴史地名大系 「盛岡八幡宮」の解説

盛岡八幡宮
もりおかはちまんぐう

[現在地名]盛岡市八幡町

盛岡城の南東、八幡町さかうえの東に鎮座する盛岡藩の総鎮守。祭神は品陀和気命。旧県社で例祭日は九月一四―一六日。現在、境内社として神明社・笠森かさもり稲荷社・梅宮うめのみや出雲いずも神社天照皇大あまてらすこうたい神社・八坂神社・三島みしま神社・賀茂神社・大神おおみわ神社・神明神社・八雲やくも神社・日吉神社・春日神社・正八幡しようはちまん神社・鳩森はともり八幡神社がある。内史略本「盛岡砂子」に「八幡宮社内南北三丁余東西二丁斗の大霊地、山に拠て数十の堂宇建つらね、盛府の大社なれは、具には云尽難し」と記される。盛岡藩四代藩主南部重信の代、城内の鳩森八幡の御旅所として新八幡宮を城外八幡山に造営することが企画され、寛文六年(一六六六)八幡山にあった閉伊へい妙泉みようせん(現在の稗貫郡大迫町の早池峰神社)の宿寺を加賀野かがの(妙泉寺山)へ、天満宮花垣館はながきだて(天神山)へ移し、境内の造成に着手した(同書)。同一一年に櫛引くしひき八幡宮(現青森県八戸市)を当地に勧請、神霊は城内三の丸に安置したとされる(南部史要)

社殿の造営は重信の子行信によって行われ、延宝七年(一六七九)に拝殿、翌年に本堂・新羅堂・御輿堂・稲荷堂・神楽堂と三十三間堂(翌年廃せらる)を建立。社前には南部流鏑馬奉納のため、長さ二二〇間・幅二〇間、面積四千四〇〇坪の八幡馬場があり、総面積一万五千一四一坪余という広大な境内を有する。天和元年(一六八一)八月一四日初めて城内八幡社の神輿が新八幡宮へ渡御、藩主重信が参詣。一五日に初の流鏑馬の儀式があり、一六日に城内へ神輿が還御している(内史略)。この時の流鏑馬は七〇石の近内長左衛門、六〇石の沢田甚右衛門、一〇〇石の戸来六右衛門が勤め、別に射手衆馳走役人として賄頭一人がおり、翌年より賄頭は惣奉行と称している(内史略本「盛岡砂子」)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「盛岡八幡宮」の意味・わかりやすい解説

盛岡八幡宮
もりおかはちまんぐう

岩手県盛岡市八幡(はちまん)に鎮座。誉田別命(ほんだわけのみこと)を主祭神とする。前九年の役のおり、源頼義(よりよし)が戦勝祈願のため石清水八幡(いわしみずはちまん)を勧請(かんじょう)したものと伝える。また、1680年(延宝8)南部氏の氏神三戸八幡(さんのへはちまん)を分祠(ぶんし)したものともいう。盛岡の鎮守として南部氏歴代の崇敬が厚かった。1876年(明治9)天皇の東北巡幸の際には当社行幸を仰ぎ、県産馬を天覧に供した。旧県社。例祭は9月15日を中心に3日間にわたり、神輿渡御(みこしとぎょ)や流鏑馬(やぶさめ)神事が執り行われる。

[高橋美由紀]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

デジタル大辞泉プラス 「盛岡八幡宮」の解説

盛岡八幡宮

岩手県盛岡市にある神社。1680年建立と伝わる。祭神は品陀和気命(ほむたわけのみこと)。旧県社。9月の例大祭の神輿渡御や流鏑馬神事などが知られる。

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