日本歴史地名大系 「盛岡八幡宮」の解説
盛岡八幡宮
もりおかはちまんぐう
盛岡城の南東、八幡町
社殿の造営は重信の子行信によって行われ、延宝七年(一六七九)に拝殿、翌年に本堂・新羅堂・御輿堂・稲荷堂・神楽堂と三十三間堂(翌年廃せらる)を建立。社前には南部流鏑馬奉納のため、長さ二二〇間・幅二〇間、面積四千四〇〇坪の八幡馬場があり、総面積一万五千一四一坪余という広大な境内を有する。天和元年(一六八一)八月一四日初めて城内八幡社の神輿が新八幡宮へ渡御、藩主重信が参詣。一五日に初の流鏑馬の儀式があり、一六日に城内へ神輿が還御している(内史略)。この時の流鏑馬は七〇石の近内長左衛門、六〇石の沢田甚右衛門、一〇〇石の戸来六右衛門が勤め、別に射手衆馳走役人として賄頭一人がおり、翌年より賄頭は惣奉行と称している(内史略本「盛岡砂子」)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報