矢原村(読み)やばらむら

日本歴史地名大系 「矢原村」の解説

矢原村
やばらむら

[現在地名]山口市穂積ほづみ町・若宮わかみや町・矢原町・周布すふ町・さいわい町の各全域、および三和さんわ町・松美まつみ町・富田原とみたばら町・前町まえまち下市しもいち町・今井いまい町・湯田温泉ゆだおんせん二丁目・たから町・あおい一―二丁目の各一部と大字矢原

山口盆地の南方に位置し、東は椹野ふしの川を境に平井ひらい、西は吉敷よしき川を境に吉敷、北は下宇野令しもうのりよう、南は黒川くろかわの各村に接する。

大内弘世は永和四年(一三七八)御堀みほり氷上の興隆ひかみのこうりゆう寺大坊に田畠一町七反を寄進したが、その中に「矢原一反半金田名」とある(興隆寺文書)。その後明応五年(一四九六)四月付の善福寺敷地寺領御判目録(善福寺文書)に「法泉寺(大内政弘)殿御判 文正元六廿九 周防国吉敷郡矢原保内伍町 右田伊豆守跡」とあり、文正元年(一四六六)右田弘直の没後、その所領のうち矢原保内五町を山口町の善福ぜんぷく寺に寺領として寄進したことが知れる。


矢原村
やばらむら

[現在地名]箕郷町矢原

松野沢まつのさわ村の南東にある。東部を大清水おおしみず川が流れ、村域は北に細く延びて相馬そうまヶ原の扇状地の一部をなす。集落は北から松原まつばら卜神ぼくしん天神てんじん原中げんちゆうがあり、縦道と箕輪みのわからの三筋の横道で結ばれる。地名は箕輪城兵の演習場であったことによるとか、城攻防の際、矢の飛び交う戦場であったことによるとか伝える。卜神・天神辺りから須恵器、原中からは縄文式土器が出土した。塚越の行人つかごしのぎようにん塚は袖のある玄室で、ほかに円墳の跡もある。天正八年(一五八〇)正月一二日付大井河内守宛武田家定書写(武州文書)に「私領白河松原同所屋敷」とある松原は、当地とも考えられる。


矢原村
やばらむら

[現在地名]三隅町矢原

美濃みの郡境の山間に位置し、北は河内こうち村。暦応五年(一三四二)六月一八日の逸見大阿代子息有朝軍忠状写(小早川家文書)などに「矢原」とみえ、同年二月二二日に三隅に向かった北朝方の逸見有朝らは、当地・大多和外おおたわげ鳥屋尾とやごうの三ヵ所の城を取囲み攻撃している。矢原城は当地松柄まつがらにあったといい、須懸忠直や矢原兼永が居城したと伝える。付近に城地じようち門の前もんのまえ古屋敷ふるやしきなどの地名が残る。元和五年(一六一九)の古田領郷帳では高三五一石、年貢高は田方一四四石余・畑方五四石余。


矢原村
やばらむら

[現在地名]御津町矢原

旭川左岸に位置し、東は伊田いた村、西は旭川を隔てて津高つだか金川かながわ草生くそう両村と対する。旭川の氾濫原に開かれた村で、戦国時代には北方にそびえるじよう(二三八メートル)熊谷くまたに城があり、金川城主松田元成の家臣楢村亦四郎が在城、のち宇喜多直家の家臣服部勘介が在城した(東備郡村志)。山頂には、本段を中心に総延長五〇〇メートル余にわたって大小の郭の遺構が連なり、大規模な山城であったことをしのばせる。

寛永備前国絵図に高三五八石余とある。「備陽記」では枝村として上矢原・はら大園おおその・熊谷・ならたにの五ヵ村をあげ、田畑三〇町四反余、家数一〇二・人数六三一、池五。


矢原村
やばらむら

[現在地名]日南町茶屋ちやや

北流する小濁こにご川最上流部に位置し、村の南端を小原こばら川が東流する。南東は大戸おおと村。拝領高は一六八石余、本免は五ツ五分。幕末の六郡郷村生高竈付では生高二三一石余、竈数三〇。安政四年(一八五七)の切畑帳(日南町役場蔵)によると切畑八反余の高一石余、物成八斗余。「伯耆志」では林四町八反余、家数二八・人数一四三、鑪山として菅谷すげたに山・虫尾むしお山・川毛山(川平山か)があり、産物は砂鉄、官倉・義倉があった。


矢原村
やばらむら

[現在地名]穂高町大字穂高 矢原

さい川の自然堤防上に位置し、からす川扇状地の末端にあって、湿地帯である。縄文式土器・石器をはじめ土師器・須恵器が多数出土している。矢原堰の開削される文化一三年(一八一六)以前には、烏川の自然流である矢原沢を利用していた。

矢原神社の前面に矢原沢の本流である宮沢みやざわが流れており、方格地割になされ、八原郷の中心である郷庁の所在地にも推定されている。


矢原村
やばらむら

[現在地名]八女市矢原

ひかり村の南西、矢部やべ川右岸に位置する。戦国期末、当地に矢原市が開かれ、この市に集住した町屋が福島ふくしま城建設とともに移転、福島城下矢原町になったという。文禄四年(一五九五)一二月の上妻郡内知行方目録写(筑紫家文書)に「やはら村」とみえ、酒井田さかいだ村・光村と合せて高六九九石余。本高は二四九石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では役高三九七石(古高の記載はない)。享和二年(一八〇二)の春免高帳では高四〇二石、文化四年(一八〇七)の畝付帳では本田一七町九反余・開田一町五反余・畑田一町四反余・畑四町二反余・居屋敷三反余。慶応四年(一八六八)の軒数六六・人数三七二、作馬二六(「人家人高田畑畝作馬調子帳」矢賀部家文書)


矢原村
やばらむら

[現在地名]山崎町矢原

揖保いぼ川の中流左岸に位置し、南は神谷こうだに村。中世は石作いしつくり庄のうちに含まれていた。年月日未詳の播磨国石作庄年貢・段銭等算用状(久我家文書)に「矢原」の名主の名がみえ、屋原とも記されている。慶長国絵図に村名がみえる。領主の変遷は山崎村と同じ。正保郷帳では田方二七九石余・畠方五八石余。下村氏手控帳(下村家文書)によると、寛文―延宝(一六六一―八一)には四ツ成高四五九石余、田一六町三反余・畑五町三反余、小物成銀一六匁余(茶役九匁余・山畑役二匁余・楮役二匁余・栗役一匁余)・桑役(真綿)三二七匁余、家数三五・人数一七一、馬三・牛一五。


矢原村
やばるむら

[現在地名]竹田市入田にゆうた

緒方おがた川南岸にあり、北対岸は河宇田かわうだ村、西は大仲寺だいちゆうじ村。正保郷帳では倉木くらき郷に属し、田方六二石余・畑方九四石余。弘化物成帳では門田組のうち、村位は中、免九ツ六分、田一三六石余(一二町六反余)・畑二七石余(四町八反余)・屋敷五石余(五反余)で、開田四斗余(二反余)・開畑五石余(八町八反余)がある。


矢原村
やわらむら

[現在地名]宮津市字矢原

栗田くんだ半島西部にあり、宮津湾に臨む農漁村。獅子ちし村の北東にあたる。

慶長検地郷村帳に「栗田村之内」として「屋原村」とみえるが、その後個別に高付され、延宝三年郷村帳に「栗田矢原村」高七五・一七石と記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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