石川理紀之助(読み)いしかわりきのすけ

精選版 日本国語大辞典 「石川理紀之助」の意味・読み・例文・類語

いしかわ‐りきのすけ【石川理紀之助】

農村指導者。秋田県出身。農業研究会をおこし、勤勉と倹約による農業をすすめて各地の農村救済と振興に努力弘化二~大正四年(一八四五‐一九一五

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改訂新版 世界大百科事典 「石川理紀之助」の意味・わかりやすい解説

石川理紀之助 (いしかわりきのすけ)
生没年:1845-1915(弘化2-大正4)

明治老農,農村指導者。出羽国秋田郡金足村に豪農奈良家の次男として生まれ,のち隣村山田村石川長十郎の養子となる。1872年(明治5)秋田県勧業係に任用され在職10年,この間農事の改良をはかるとともに,勧農義会,種苗交換会などを組織し永続させている。82年山田村救済のため帰村し,更生計画を実践して立直しに成功,広く世に知られることとなった。明治20年代前田正名の指導のもとに推進されていた町村是調査の事業に共鳴し,その事業に協力した。96年2県8郡にわたる適産調に着手し,1902年731冊にのぼる膨大な調査書を完成した。これは町村経済の基礎を固め自治制を確立するための調査事業であり,農村計画の例として著名である。明治30年代には前田要請により鹿児島,宮崎2県にわたる疎水開田事業に6ヵ月間滞在し指導にあたっている。
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朝日日本歴史人物事典 「石川理紀之助」の解説

石川理紀之助

没年:大正4.9.8(1915)
生年:弘化2.2.15(1845.3.22)
明治期の農事指導者。出羽国秋田郡小泉村(秋田市)の奈良周喜治の3男。慶応1(1865)年同郡山田村(昭和町)の肝煎石川長十郎家の養子となる。明治10(1877)年以降秋田県庁で勧業行政を担当,腐米改良の指導,種苗交換会開設に尽くし,また県内の篤農家を組織し歴観農話連を結成,農事改良に努めた。16年に帰村,松方デフレ下で窮乏を深めた居村の救済を志し,山田村経済会をつくって村興しに成功。次男老之助に家督を譲り,22年,貧農生活実践のために山居生活に入り,『草木谷山居成績』『稲種得失弁』などを著した。28年には農会づくりに奔走し秋田県農会を結成,会長に推される。29年からは農村調査,適産調に着手,35年まで秋田,福島両県の49町村の調査を完了した。昭和期には,その精神主義的な克苦勉励が強調されて「農聖」と呼ばれたが,真面目は綿密な調査に基づいた経験の分析と,その普及への熱意にあった。「寝ていて人を起すこと勿れ」は彼の遺訓である。<参考文献>佐藤常雄「『稲種得失弁』解題」(『明治農書全集』2巻),川上富三『石川理紀之助の生涯』

(田口勝一郎)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「石川理紀之助」の意味・わかりやすい解説

石川理紀之助
いしかわりきのすけ
(1845―1913)

明治時代の農業指導者。出羽(でわ)国秋田郡小泉村(秋田市金足小泉)の豪農奈良家に生まれる。のちに近くの山田村の旧家石川家の養子となり(1865)、5年後には没落に瀕(ひん)していた養家を回復して、14町歩(約14ヘクタール)の地主になった。1872年(明治5)秋田県勧農部に奉職して、勧業試験場を設け、77年以降、秋田産米の腐米防止研究を行い、同年、県の招いた奈良県の老農中村直三(1819―82)とともに数百種のイネを試験した。これに先だって、彼はイネ乾燥法として「斜掛稲架(はさ)」を考案した。中村は翌年帰郷したが、石川は研究を続け、1901年(明治34)その記録の一部を『稲種得失弁』として発行した。彼は官と結び付いて農民組織で活躍し、1876年には勧農義会を、80年には歴観農話連をつくり、技術研究を行い、また窮乏村の救済、救荒対策に活躍した。

[福島要一]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「石川理紀之助」の解説

石川理紀之助 いしかわ-りきのすけ

1845-1915 明治時代の農業指導者。
弘化(こうか)2年2月25日生まれ。明治5年秋田県庁にはいり,勧農義会,種苗交換会を組織。29年から農村の総合実態調査に着手し,49ヵ町村を対象に「適産調」731冊をまとめた。大正4年9月8日死去。71歳。出羽(でわ)秋田郡出身。本姓は奈良。名は貞直(さだなお)。号は廃物利用庵。著作に「稲種得失弁」など。

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百科事典マイペディア 「石川理紀之助」の意味・わかりやすい解説

石川理紀之助【いしかわりきのすけ】

明治期最後の老農。羽後出身。秋田県勧業部で産米改良やイネの品種改良に努め,農談会や種苗交換会を開いて技術普及に当たった。出身地の疲弊を救う実践活動により著名となる。1882年退官後,報徳精神を奉じて,各地の農村更生計画や農業適産調を試み,地方農会の組織を援助した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「石川理紀之助」の意味・わかりやすい解説

石川理紀之助
いしかわりきのすけ

[生]弘化2(1845).秋田
[没]1915.9.
明治の農業改良家。秋田県下の小作調停で名をあげ,のち農業問題の権威となる。 1895年九州を遊説,多数の衰村復興に功があった。

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世界大百科事典(旧版)内の石川理紀之助の言及

【老農】より

…また農会をつうじて老農の優れた経験的な技術の深化と普及が進むなど,明治農法の基礎が固まった。 著名な老農には,イネの品種改良や耕種改善に功のあった中村直三奈良専二,勧農社を組織して馬耕教師と抱持立犂(かかえもちたちすき)を全国にひろめた林遠里,駒場農学校から農商務省の巡回教師となった船津伝次平,勤倹力行を鼓吹した石川理紀之助などがおり,とくに中村,船津,奈良(あるいは林)を明治三老農という。しかし老農も,90年代に農科大学や農事試験場などが整備され,近代的な輸入農学が消化されると,しだいに活躍の場も狭くなっていった。…

※「石川理紀之助」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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