文化人類学者。第二次世界大戦後、東京大学文化人類学教室の開設をはじめ、東北大学、埼玉大学、日本民族学会などにおいて、文化人類学の研究、教育、普及に尽力、日本の文化人類学発展の基礎固めをした。文化の理論的研究や日本文化論でも多くの業績を残している。男爵石田英吉(1839―1901)の孫として大阪に生まれ、東京府立四中、一高、京都帝国大学(経済学部)に進む。マルクス主義の研究、共産主義者たちへの接近が治安維持法に触れ、6年間(1928~1934)禁錮刑に服した。出所後、ウィーン大学に留学、民族学を修め、中国(西北研究所)で終戦を迎え、帰国。東京大学教授(1951~1964)として、同大学の文化人類学の専門コースの創設と運営に従事、のち東北大学、埼玉大学を経て1968年4月多摩美術大学学長、同年11月死去。1967年に『文化人類学ノート』を著す。著書はほかに『河童駒引考』(1948)、『桃太郎の母』(1956)などがある。
[大貫良夫 2018年11月19日]
『『石田英一郎全集』全8巻(1970~1972/新装版・1977、1978・筑摩書房)』▽『山口昌男編著『石田英一郎』(『日本民俗文化大系 8』所収・1979・講談社)』
昭和期の民族学者,文化人類学者 元・多摩美術大学学長。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
文化人類学者。男爵石田八弥の長男として大阪に生まれ,第一高等学校から京都帝国大学経済学部に進みこれを中退。京大時代N.ネフスキーよりロシア語を学び,民族学,民俗学への関心を抱く。共産党の活動に荷担したとして治安維持法により逮捕され(学連事件),1928年より5年間堺刑務所に服役。釈放後柳田国男,岡正雄らを知り,37-39年ウィーン大学に留学,民族学を修めて帰国。44-45年蒙古善隣協会の西北研究所の次長として,所長の今西錦司と共に張家口で研究と調査に従事。第2次大戦後,学会誌《民族学研究》の編集を担当,51-64年東京大学教授をつとめ,同大学の文化人類学教室を開設。その間,文化は構造化された超有機体的実在であり,その構造と変化の法則性は実証的研究を通じて探究されなければならないという姿勢をもって,総合の学としての文化人類学の普及に尽力し,教育方針の確立に大いに功績があった。1958年第1次東大アンデス学術調査団団長をつとめたほか,64年以降東北大学日本文化研究施設の主任,多摩美術大学学長などに就任。主著《河童駒引考》(1948),《文化人類学序説》(1959)。《石田英一郎全集》8巻(1972)がある。
執筆者:大貫 良夫
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…この年,小樽高商事件などを契機に早大,東大その他全国の大学などで反軍運動が高まっていたが,12月1日,京都府警の特別高等警察は,同志社大学での軍事教練反対ビラの掲示を口実に同志社大と京大の学生33名を検挙したが,証拠不十分で釈放した。しかし,警察当局は,学連大会の決定が治安維持法,出版法などに違反するとして,翌26年1月から4月にかけて京大はじめ学連の中心メンバーを検挙し,岩田義道,鈴木安蔵,石田英一郎ら京大学生20名ほか村尾薩男,野呂栄太郎,林房雄など計38名を起訴した。これと同時に河上肇,河野密,山本宣治,河上丈太郎らの教授も家宅捜索を受けた。…
… 日本においては,折口信夫による常世国(とこよのくに)のまれびと神来訪とその歓待につくす処女の役割に関する民俗学的研究(《常世及びまれびと》)が,古代における女神信仰の原初的形態を示唆する興味深い資料を提供している。石田英一郎は《桃太郎の母》で,こうした豊かな民俗資料を手がかりに,古代日本人の原初的母神信仰を,古代地中海世界における母権社会との関連の中で比較文化史的に追究している。地母神ビーナス【山形 孝夫】。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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