磨上原(読み)すりあげはら

日本歴史地名大系 「磨上原」の解説

磨上原
すりあげはら

猪苗代町西部の三ッ和みつわ磐根いわね両地区から磐梯町東部の更科さらしな地区にかけての磐梯山南麓裾野一帯標高五〇〇―六〇〇メートルの傾斜地上に広がる原野で、天正一七年(一五八九)会津蘆名氏と米沢伊達氏との決戦地となったことで知られる。江戸時代には会津藩の放鷹地・鷹狩場であった。摺上原とも記す。「新編会津風土記」によると、文治年中(一一八五―九〇)源義経が東国に下向したとき付従っていた武蔵坊弁慶・亀井六郎が当地において路傍の石で墨をすり、一帯の山水の美を記したことが地名の由来という。

天正一六年蘆名氏・佐竹氏・二階堂氏の連合軍と伊達勢は安積あさか・安達両郡で衝突を繰返していた。しかし徐々に伊達勢が優位となり、翌一七年五月四日には安積安子島あこがしま(現郡山市)、翌五日には同郡高玉たかたま(現同上)が伊達勢によって攻め落されている。伊達政宗の家臣伊達成実・片倉景綱はこの機に蘆名一族の猪苗代盛国を内応させ、会津侵攻を本格化することを政宗に進言した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「磨上原」の意味・わかりやすい解説

磨上原
すりあげはら

福島県中北部、磐梯山(ばんだいさん)南麓(ろく)の裾野(すその)。摺上原とも書く。標高550~600メートルの火山扇状地を主とする緩斜面で、耶麻(やま)郡猪苗代町(いなわしろまり)と磐梯町にまたがる。磐梯朝日国立公園の一部。かつては会津若松から猪苗代を経て二本松に向かう二本松街道が横断していた。1589年(天正17)伊達政宗(だてまさむね)の軍が攻め込んで蘆名(あしな)氏の軍勢を破った古戦場として知られる。第二次世界大戦時までは陸軍の演習場であったが、戦後開拓が進められ、高原野菜や飼料作物の栽培が行われている。猪苗代町営の磐梯山牧場もある。

[安田初雄]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「磨上原」の意味・わかりやすい解説

磨上原
すりあげはら

福島県中部,猪苗代盆地の北部にある台地。標高 500~600m。天正 17 (1589) 年,会津領主の蘆名義広伊達政宗が戦ったところとして有名。押立温泉がある。

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