奈良盆地中東部一帯を指す地名。師木,志貴などにもつくる。《日本書紀》神武即位前紀には磯城邑(しきむら)がみえ,兄磯城(えしき),弟磯城(おとしき)という有力豪族がおり,後に弟磯城が磯城県主となったとある。磯城県は4~5世紀ころの成立とみられるが,その地域が中心となって奈良時代の城上(しきのかみ)郡,城下(しきのしも)郡ができる。崇神天皇の磯城瑞籬宮(みずがきのみや),垂仁天皇の纏向珠城宮(まきむくのたまきのみや),景行天皇の纏向日代宮(ひしろのみや),欽明天皇の磯城嶋金刺宮(しきしまのかなさしのみや)などが営まれたことが《日本書紀》にみえ,この地域は磐余(いわれ)地域とともに狭義のヤマトの主要部分を占め,古代の政治・文化の中心であった。埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣銘にみえる〈獲加多支(わかたける)大王〉(雄略天皇)の〈斯鬼宮(しきのみや)〉は大和のシキ地域の宮であるとする説が有力で,雄略天皇の泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや)が存在したとみられる地域も含めてシキを考えることもできる。このようにシキの範囲は三輪山周辺を中心とした初瀬川の扇状地や巻向(まきむく)周辺を含むかなり広い地域を指すとみられるが周辺部の確定は難しい。やまとの枕詞としてもしられる磯城嶋はシキの島の意味であるとみられ,この地域の一部を指すと思われる。11世紀ころの荘園である城嶋荘(しきしまのしよう)の坪付から三輪山東南の初瀬川と粟原(おおばら)川とに挟まれた地域が考えられ,桜井市大字慈恩寺には〈式嶋〉の小字も残る。
→泊瀬(はつせ)
執筆者:舟尾 好正
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
奈良県中北部、奈良盆地中央部を占める地域。磯城郡の名は『日本書紀』にみえるが、その後、十市(といち)、式上(しきじょう)、式下(しきげ)の3郡となり、1897年(明治30)3郡が合併してふたたび磯城郡になった。現在の磯城郡と桜井市のほか天理市の一部を含む。『日本書紀』の磯城嶋金刺宮(しきしまかなさしのみや)(欽明(きんめい)天皇)などの宮跡の地で、古代条里制や中世環濠(かんごう)集落の遺構がよく残されている。溜池(ためいけ)の多い水田地帯で、明治期に米麦のほか綿花、菜種、イグサの栽培が盛んであった。
[菊地一郎]
辻本好孝編 磯城郡郷土文化研究会 昭和一三―一六年刊
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
…ヤマトの範囲は初瀬川の流域で,三輪山と香具山を結んでできるデルタ地帯(第一次ヤマト)である。シキ(磯城)やイハレ(磐余(いわれ))地域が第一次ヤマトに相当する。香久山は代々の大王の国見儀礼の舞台であるとともに,その土が呪力あるものとされ,神聖視されていた。…
※「磯城」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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