批評家。神奈川県横浜市生まれ。東京都葛飾区亀有に30年あまり住んだのち、1971年(昭和46)に千葉県松戸市に居住。終焉の地となる。東京大学英文学科卒業後、中央大学文学部助教授、東京工業大学教授を務めた。1960年に『群像』新人賞の最終候補作となった「三島由紀夫論」が同誌の同年10月号に掲載され、デビューを飾る。同年新人賞は秋山駿(1930―2013)、小説部門の候補者には佐木隆三、山田智彦(1936―2001)、三枝和子がいた。4年後に刊行された『殉教の美学』(1964)ではヒューマニズムを超越原理への殉教意識によって超えようとする磯田の批評的本質が初めて宣言された。若い世代が左翼思想以来の戦後批評の総決算を求めている時期に、「転向論」そのものを精神の「パトス」としてとらえた論法は『文学、この仮面的なもの』(1969)で一つのスタイルを確立したといってよい。この年、中央大学の助教授でありながら学園紛争で学生を擁護する態度を貫き、8月には依願退職している。磯田の「殉教」理論を昭和史の象徴的な事件として実証してしまう三島由紀夫の自決は翌1970年11月25日に起こった。知人に「三島由紀夫の死への哀悼の意をこめて、来年の年賀は欠礼させていただきます」と黒縁取りの葉書を送った磯田は、昭和そのものへの鎮魂を意識していただろう。そして、三島以後の時代をいち早く批評した『正統なき異端』(1969)、『悪意の文学』(1972)、『砂上の饗宴』(1972)、『邪悪なる精神』(1973)、『近代の迷宮』(1975)によって、戦後の代表的な批評家としての地位を確立したといえる。磯田光一の認識は、今日から振り返るとき、三島の自決を「病気でしょう」といって小林秀雄の激怒をかった江藤淳の批評レベルとは評価が逆転していると見る向きもある。のちに戦後の時空を不可避的な人工性としてみる磯田と、「天皇の国家統治の大権を変更する要求」が含まれないという了解を附帯条件提示としたポツダム宣言にこだわり、戦前の時空からの持続を主張する江藤淳がぶつかるのは必然だった。
さて、前期がジャーナリスティックな批評だったとしたら、昭和50年代以降の磯田は書誌学と文芸批評の接点を模索する本来の研究家としての作品を仕上げてゆく。1983年に刊行された『鹿鳴館の系譜』では、翻訳文化を受容せざるを得なかったわが国の文化を、風俗や社会史の資料にまでひろげ、「文学の背後から見た文学史」(西尾幹二(1935― ))と評され、第35回読売文学賞に輝いた。『思想としての東京』(1978)では、東京という新帝都がいまだに土着としてもっている領域と、空洞化に流入した外来思想が原形を逸脱した新しいスタイルとして混在するアジアの一都市東京を冷静に分析し、悲哀と延命するリリシズムをあぶりだした。そこに、磯田光一という名の「詩人」の解体と葬送をみることができる。磯田の本質は、犯されがたい「孤独」を愛したボードレールのダンディズムにあったが、当然のことながらその論稿は日本のボードレールともいうべき『萩原朔太郎』(1987)へと向かった。が、死は唐突に訪れた。1987年2月5日、急性心筋梗塞により急逝。享年56歳。
『群像』に連載中の「萩原朔太郎」最終章のタイトルと磯田光一の署名が絶筆となった。最終章にどんなドラマがつづられたのかもはや知るべくもない。が、そこに付された「過失と宿命」というタイトルは、磯田光一という個人を越え、批評家そのものの必要をこの国において永遠に問い続けているように思われてならない。
[山岡賴弘]
『『文学、この仮面的なもの』(1969・勁草書房)』▽『『正統なき異端』(1969・仮面社)』▽『『悪意の文学』(1972・読売新聞社)』▽『『砂上の饗宴』(1972・新潮社)』▽『『邪悪なる精神』(1973・冬樹社)』▽『『近代の迷宮』(1975・北洋社)』▽『磯田光一著『昭和作家論集成』(1985・新潮社)』▽『磯田光一著『左翼がサヨクになるとき』(1986・集英社)』▽『『永井荷風』『思想としての東京』『鹿鳴館の系譜』『萩原朔太郎』(講談社文芸文庫)』
昭和期の文芸評論家 東京工業大学教授;日本近代文学館理事。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
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