近世薩摩(さつま)藩で行われた独特の剣法で、流祖は東郷藤兵衛尉重位(とうごうとうべえのじょうじゅうい/しげかた)(1561―1643)。重位は初め、当時九州地方に広がった丸目蔵人佐(まるめくらんどのすけ)のタイ捨流を学んだが、1588年(天正16)領主島津義久(よしひさ)に従って在京中、寺町鞍馬口(くらまぐち)の天寧寺(てんねいじ)に参禅する機会を得、そこで閑翁善吉和尚(かんおうぜんきつおしょう)(俗名赤坂雅楽助(うたのすけ))に邂逅(かいこう)し、香取神道(かとりしんとう)流系の十瀬与三右衛門長宗(とせよさうえもんながむね)を祖とする天真正自顕(てんしんじょうじけん)流の刀法を伝授された。帰国後、両者の精髄をあわせて、この一流を編み出したという。1604年(慶長9)44歳のとき、藩主家久(いえひさ)に召し出されて兵法師範となり、金剛経文にある示現神通力(じげんじんつうりき)の語をとって流名を示現流と改めた。以来、同藩の御流儀として代々家中に教授し、現在の12代重徳(しげのり)までよく相伝の技法を伝えている。また重位の門人、薬丸刑部左衛門兼陳(やくまるぎょうぶざえもんかねのぶ)(1607―89)は、実戦的な野太刀(のだち)を中心に下士・郷士層に教授し、薬丸流と称した。この流の特徴は、立木(たちき)打ちを中心とする練習方式で、斜の構えから「朝に三千、夕に三千、立木を打て」と教え、強靭(きょうじん)な臂力(ひりょく)を養うとともに、打太刀の的確さを会得させ、「一の太刀を疑わず」、生死を断じ、自他を超越し、活殺を一如とすることを要訣(ようけつ)とした。幕末・維新に活躍した中村半次郎(桐野利秋(きりのとしあき))・篠原国幹(しのはらくにもと)・奈良原喜左衛門・有村次左衛門・大山格之助(綱良)らは、この門派の出身である。なお、傍系に、1747年(延享4)日向(ひゅうが)延岡(のべおか)から常陸(ひたち)笠間(かさま)に移封となった牧野家中に伝えられた示現流がある。
[渡邉一郎]
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