人間は生まれながらにして自由・平等の権利をもつとし、それらの権利をよりよく保障するためには相互に契約(同意)を結んで、「法の支配」する政治社会(国家(コモンウェルス))を設立する必要があることを説き、また政治社会を運営するために設けられた政治機関がどのように行使されれば個人の自由や生命の安全を守ることができるか、といういわば近代国家の根本問題である「権力」と「自由」との関係を民主主義的に解決する方法を提示した近代政治思想。17、18世紀の市民革命期に登場した近代国家の正統性と存在理由を説明した政治理論であり、ホッブズ、ロック、ルソーらがその代表的理論家である。
[田中 浩]
権力の基礎は「人民の同意」に基づくという契約論的考えは、すでに16世紀の絶対主義時代に主としてヨーロッパ大陸において、スペイン、フランス、イタリアなどのジェスイット派やカルバン派の神学者・法学者・政治学者などによって唱えられた。
たとえば、ジェスイット派の理論家たち、スペインのモリナ、スアレス、マリアナ、イタリアのベラルミーノやイギリスのパースンズたちは、法王は直接に神によって任命されたが、国王権力は人民に由来し、原始契約の条項やコミュニティの保持という目的によって制限されているから、法王権力が世俗権力に優位する、したがって異教徒の君主(プロテスタント君主)は法王の命令しだいでその臣下によって廃位あるいは殺害されうる、と主張している。
他方、カルバン派の理論家たちは、国王の地位は国民によって確立された、また政府は契約に基づいて設立されたと述べ、スコットランドのノックスやブキャナン、あるいはフランス・ユグノー派の『暴君に対する抗弁』(1579)では、民衆的反乱と暴君殺し(暴君放伐論)や異教徒(カトリック)の君主の廃位を正当化している。いずれの党派も原初的な契約理論を用いているが、ここでは主要なテーマは「宗教と政治」すなわちローマと絶対君主、ジュネーブと世俗君主、あるいはカトリック君主対人民、プロテスタント君主対人民といった問題をめぐっての論争にすぎず、「人間」やその集団である「人民」の立場から構築された政治論ではないという意味において近代的な政治理論とはいえなかった。
[田中 浩]
近代的な社会契約理論は、17世紀中葉のピューリタン革命期に『リバイアサン』(1651)を書いたホッブズによって初めて構築された。彼は、人間にとってもっとも重要なことは生命の保存〔自己保存(セルフ・プリザーベーション)〕である、そして人間は生きるためにはいかなることをしてもよい、たとえば人を殺してもかまわない、生まれながらの権利〔自然権(ナチュラル・ライト)〕をもっている、という。ところで、かつて人間は、法律も政府も知らない自然状態(ステート・オブ・ネイチュア)にあったが、ここでは、各人が自然権を行使すれば相互に殺し合うという危険な状態も生じた(万人の万人に対する闘争状態)。これでは、せっかく人間が自己保存のために自然権をもっていたとしても、かえって生命の危険にさらされる状態が発生する。そこで、人間は心の内にある理性の声が教える、自己保存のための諸条件すなわち自然法(ロー・オブ・ネイチュア)の教えに従って平和を確保する必要がある、とホッブズはいう。そこで、人間は契約を結び、各人のもつ自然権を放棄して、各人のもつ力を結集してより大きな集団的力をもつ政治社会をつくり、その力(これが最高権力つまり主権)を行使する権限を1人の人あるいは少数の集団(これが主権者である)に与え、各人の自由や生命の安全を保障する法律を制定することを委託し、各人はその法律に従うことによって平和に安全に生きよ、ということになる。これがホッブズの基本的考え方である。
このホッブズの政治理論のなかに、近代国家における民主主義思想の基本原理がほとんど出尽くしている。たとえば、生命の尊重=基本的人権の尊重、同意・契約による政治社会(国家)の設立=国民主権主義、主権者による法律の制定と執行=法の支配、政治社会設立の目的としての平和の確立、などである。ホッブズは主権者には強い力を与えよ、また人民は主権者に反抗してはならない、と述べているというので、彼は絶対君主の擁護者ではないか、という非難がよく聞かれる。しかし、ホッブズの主権者は人民集合体の代表人格である。主権者たる彼あるいは集団のもつ力や権力は、封建領主、教会、封建議会、ギルド、いや絶対君主よりも優位し、主権者は、人民の自由と安全の確保のためにその与えられた権力を行使する。このように権力行使の目的は人民の生命の安全確保にあるから、その目的に反するような立法は違反行為である。主権者の行動は絶対君主や独裁者のように無制約的ではないのである。
このことをホッブズは「市民法(各国の法律)は自然法(人命確保と平和確保の条件)の内容に反してはならない。違反した部分は無効である」ということばで述べている。したがって主権者の命令つまり法律に従うことは、契約によって設立した政治社会の目的=平和と安全を実現するうえで、人民側の守るべき当然の義務である。そして、このような治者・被治者双方の側における政治理念の確立と理解なしには、「政治の世界」はたちまちにして専制化・独裁化するか、アナーキーに陥るかであろう。
[田中 浩]
ロックもホッブズに倣って自然状態の叙述から始める。ロックの自然状態は、ホッブズと異なり平和な状態とされている。これに対し、ホッブズは自然状態を闘争状態として描いたから、これを停止させるために強い主権者を必要としたのだといわれ、ホッブズは権力主義者であるとされてきたが、この考えが間違いであることは前述したとおりである。ホッブズは、人間が自分で自分を守ることをやめよ、つまり武器を捨て一つの権力がつくる法の下に服せよといっているのであって、明治維新期の廃藩置県による明治政府の統一的支配の確立、武士階級の廃刀令実施などの政治的措置こそまさに、ホッブズのいう近代国家形成への道を実践したものであった、といえよう。
ロックの自然状態は、初期には確かに欲望を抑制することを教える自然法がそこに存在していることによって平和状態だとされているが、人間がいったん貨幣を発明し財産を蓄積し始める(私有財産制)と、闘争、強盗、詐欺などの不都合が生じるとされている。そこで、ロックは、人々はその所有権(プロパティ―生命のほかに自由、生活手段としての財産を含む)を守るために契約を結んで政治社会(コミュニティ)をつくった、と説明している。この意味で、ロックは、当時、資本の創出と蓄積に邁進(まいしん)しつつあった新興市民階級の立場からその社会契約論を展開したものといえよう。
続いてロックは、コミュニティを安全に維持する最重要な政治機関は立法部であるとし、国王・上院・下院から構成されるイギリス議会に最高権力があるとし、もしも立法部と行政部(国王)との間に矛盾が生じるならば、前者が後者に優位する、と述べている。この考えは、後の、内閣は議会に責任を負うという議院内閣制の先駆的思想といえよう。さらにロックは、悪い政府や立法部は変更してもよいと述べている。この考え方は、のちに解散制度として発達した。こうしてロックにおいて、政府をつくるのも変更するのも人民の同意・契約に基づくという民主主義的政治思想や議会制民主主義の運営ルールのモデルが形成されたのであった。
[田中 浩]
社会契約ということばはルソーによって初めて用いられた。なぜなら、ホッブズもロックも、契約、信約、同意ということばしか用いていないからである。ところでルソーの場合にも、自然状態、自然権、自然法、社会契約ということばがその政治論のなかに出てくるが、もはやルソーの場合には、自然状態を克服するために自然法によって社会契約を結び政治社会を設立する、というホッブズ、ロックにみられる有名な理論構成は用いられていない。
ホッブズやロックは、政治社会を形成すれば人間の自由や社会的平和が確立される、という楽観論にたっていたが、彼らより1世紀近く遅れて生まれたルソーにとっては、隣国イギリスの政治状態はかならずしも十分に民主主義的なものとは思えなかった。むしろルソーは、自然状態から文明状態に進んだ当時のフランス封建社会をますます堕落しつつある社会とみた。したがってルソーは、ホッブズやロックのように楽観論にたつことはできなかったのである。ルソーによれば、農業と冶金(やきん)が大規模化し、つまり少数者が多数者を集めて物を生産させる仕組みのなかに人間不平等の起源(『人間不平等起源論』1755)があるとし、またそれによって人間の自由は失われ、人間は至る所で鉄鎖につながれている(『社会契約論』1762)ととらえたのであった。法や制度や専制君主などはすべて多数人民を抑圧するための道具であり、したがって、これらのすべてを破壊することなしには人民の自由は回復されず、平等は達成されない、という考えがルソー政治論の出発点であった。もちろん当時のフランスは厳しい旧体制の支配下にあり、暴力革命によって新体制を創出することはほとんど不可能に思えたであろう。
そこでルソーは、よりよい政治とは何かを当時の人々に教えることによって人民を啓蒙(けいもう)し、最良の政治を実現する方向に人々を向かわせようとして『社会契約論』を執筆したものと思われる。ここでは、個人の自由・利益と公共の自由・利益とを同時に考えることのできる市民(シトワイヤン)が、契約を結んで「一般意志(ボロンテ・ジェネラール)」をもつ政治社会を確立し、その「一般意志」の定める法律によって政治が行われることを提案している。この「一般意志」の形成された政治社会こそホッブズの「主権」=共通権力(コモン・パワー)をもつコモンウェルス(国家)、ロックのコミュニティ(政治社会)に相当するものと考えられる。この場合、ホッブズにあっては、主権者は1人あるいは少数の集団とされていたのに対し、ルソーでは、主権者を、契約を結んだ全員の意志とした点で、国民(人民)主権主義の意味がより明確になった。またロックは立法部に主権があるとしたが、ルソーによれば、イギリス議会は国王と上院は非民選、下院は制限選挙によって選出された議員の構成体であるから真に民主主義的ではないとされ、「イギリス人は選挙のときだけ自由でそれ以外のときは奴隷状態にある」「一般意志は代行されない」として、ルソーはイギリスの政治を批判している。「一般意志は代行されない」というイギリス議会への批判をもって、ルソーは、代議制を批判し直接民主制(カシの木の下の民主政)を主張したものだという論があるが、これは間違いである。ルソーもフランスのような大国では直接民主制は不可能であると考えていたからである。とすれば、このことばは、まず全国民の意志を代表できるなんらかの会議体を設立せよと読み取るべきであって、そのことは事実上、普通選挙による人民主権論を主張したものと考えるべきであろう。「一般意志」が人民や国民の契約によって形成された政治社会の主権であるとすれば、君主、身分制議会、制限選挙による議会、教会、ギルドなどによって代行されることは断じて許されるべきではないのである。ルソーによって、ホッブズ、ロック以来の民主主義的な近代国家論のモデルが完成されたものといえよう。
[田中 浩]
アメリカの「独立宣言」とフランスの「人権宣言」は、「社会契約説」「近代自然法思想」の勝利を告げる輝かしい金字塔であった。しかし、この勝利はあくまでも上層の市民階級の勝利でしかなかった。イギリスにおいてもフランスにおいても中産以下の人々は選挙権をもたなかったし、アメリカでは、黒人はまったく政治参加の道を閉ざされていた。このため、人間は生来、自由・平等な存在であったという社会契約説を掲げて、各国において選挙権の拡大闘争が起こった。これに対し、いまや支配層の一角を占めたイギリス上層ブルジョアジーは、選挙権は財産所有の額によって定められるものであって自然権ではないとし、選挙権拡大運動を起こした中産以下の人々を弾圧した。
たとえば、ホイッグ党に属する政治思想家E・バーク(1729―97)は、「権利章典」(1689)には自然法ということばはない、名誉革命では一滴の血も流されなかったが、フランス革命では多数の血が流された。その理由は、フランス革命では、ルソーの自然権思想に影響されて平等が叫ばれたからである、と述べ、また各国の歴史や政治は神の計画に基づいて発展してきたもので、人民がかってにつくったり壊したりできるものではない、として「社会契約説」を批判した。いまや上層ブルジョアジーは、かつて彼らが掲げた近代自然法の旗を捨て、中産階級以下の人々がそれを拾い上げた。イギリスではその後、J・ベンサム(1748―1832)が、自然権のかわりに「ユーティリティ」(効用、功利)の原理に基づく「最大多数の最大幸福」理論を提唱し、普通選挙権への道を開いたのであった。17、18世紀の社会契約説の精神は、19世紀のベンサムの「功利主義」のなかへ受け継がれたといってよいだろう。他方、社会契約説における人間の平等という考え方は、経済的平等を主張する社会主義思想のなかへと流れ込んでいった。
[田中 浩]
ところで、ドイツや日本のように遅れて資本主義国家となり、富国強兵策によって欧米先進諸国に追い付こうとした国々では、国家主導型の政治・経済体制がとられたため、個人の自由や権利が著しく制限された。そのことが、これらの国民の間に国家主義や軍国主義の風潮を生み出し、国威発揚のためには他国家や他民族を侵略してもかまわないという考え方や行動をとらせることになり、それが第一次世界大戦や第二次大戦の引き金となった。戦後、「世界人権宣言」(1948)が国連総会において採択されたのは、人権尊重の観念が希薄で、非民主的な政治・経済制度をもった国々が悲惨な世界戦争を引き起こしたという認識を全世界の人々が共通に理解したためであった。
第二次大戦後、日本でも、新憲法を制定して、国民主権主義、平和主義、基本的人権の尊重という3原則を明確にしたが、このような民主主義思想は、社会契約説の思想原理を実現したものといえよう。
[田中 浩]
『田中浩著『ホッブズ研究序説――近代国家論の生誕』(1982・御茶の水書房)』▽『田中浩著『国家と個人』(1990・岩波書店)』▽『田中浩著『近代政治思想史』(1995・講談社)』▽『飯坂良明・田中浩・藤原保信編『社会契約説』(1979・新評論)』▽『福田歓一著『近代政治原理成立史序説』(1971・岩波書店)』
政治社会の成立を個人間の契約に求め,それによって政治権力の正統性を説明する理論。すでに古代ギリシアのソフィストにその端緒が見られるが,17~18世紀のヨーロッパにおいて全面的に展開され,国家を個人の作為とし,政治的義務の根拠を個人の選択に求めることによって,権力による事実的支配であった主権国家を,被治者の自発的結社に組みかえる近代国家の構成原理として,巨大な歴史的役割を果たした。これに先立って16世紀以来しばしば抵抗権の論拠となった君主と人民との間の支配-服従契約が,実質的に身分社会を前提としていたのに対して,社会契約説は自由・平等な個人を前提とするところに特色がある。すなわち,諸個人の間に政治権力の存在しない自然状態を想定し,各人に自己保存の自然権を認めるとともに,これらの個人が相互契約によって社会状態を構成すると説いた。したがって社会契約説のいう社会とは,支配-服従の関係を含む政治社会にほかならない。これは,身分制の崩壊以後各人が自己の判断と能力とに頼って,それぞれの責任で運命をきりひらいていく個人主義の時代を背景にもつもので,すでに新大陸へ渡る清教徒の間には,現実にメーフラワー・コンパクト(1620)も結ばれていた。しかし,自然状態-社会契約-社会状態という図式を理論的に確立したのはホッブズであって,彼は自然状態を戦争状態と考え,その無秩序を克服するために絶対無制限の権力が必要であるとして,各人が特定の自然人または合議体を主権者として受けいれることを相互に契約するとき,その間に政治社会すなわち国家が生まれると説いた(《リバイアサン》1651)。これに対して,ロックはまず相互契約によって社会を構成した諸個人が,多数決によって選んだ立法機関に統治を委託すると説き,その目的を私有財産を含む個人の自由権の保障に求めることによって,権力に制限を加えた(《統治二論》1689)。
18世紀に入ると,社会生活の組織化が進み,また社会契約は歴史的事実でないという経験科学的批判が起こったが,その中でJ.J.ルソーはこの図式に新しい内容を与え,この理論の革命的意味を明らかにした。彼によれば,主権はつねに契約によって社会を構成した諸個人の全体すなわち人民にあり,この人民はそのまま立法機関として定期的に集合し,その意思すなわち一般意思を法として制定するが,その執行は別に政府を選んでこれにゆだね,しかも政府の存立は全面的に人民の信任に依存するのである(《社会契約論》1762)。こうして,自由平等な個人の自然権から出発した社会契約説は,政治権力制限の理論から,人民主権の理論へと展開し,自由主義および近代民主主義の理論的骨格をつくり出して,近代国家の構成様式に絶大な影響を及ぼした。ジェファソンが憲法を社会契約と考えて,世代ごとにその見直しを求めたのは,その一例である。社会契約説はなおベッカリーア,カント,若いフィヒテらによって採用されたものの,だいたいフランス革命の終了とともに理論的生命を失ったが,権利義務関係としての公的秩序という近代国家の機構の背景にはなお潜在しているといってよい。
日本では中江兆民によるルソー《社会契約論》の翻訳(《民約訳解》1882)に代表されるように,自然権の理論(天賦人権論)と結びついて,明治初年に紹介され,1880年ごろから盛んになった自由民権運動の一つの理論的支柱となった。しかし,国会開設,憲法制定の要求に対して,加藤弘之らが当時ヨーロッパにおいて優勢であった社会進化論的権利論を導入して批判を加えるに及んで,時代遅れの理論とされてしまい,明治憲法の欽定によって問題がいちおう決着したこともあって,社会契約説は理論的にも精神的にもついに根づくことができなかった。これはある意味で,明治国家の性格を象徴する思想現象であったといってよい。
執筆者:福田 歓一
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17~18世紀のイギリス,フランスに展開した政治理論。代表的な思想家は,ホッブズ,ロック,ルソーであり,国家や社会は自由で平等な個人を単位とした契約によって成り立つべきであるとする。国民主権や基本的人権の尊重など,近代民主主義の精神の萌芽がみられ,社会契約説はアメリカの独立宣言やフランスの人権宣言に色濃く反映されている。しかし,女性,下層民,黒人などは,当時の「人権」をめぐる議論からは除かれていた。
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…このような市民社会の中で,独立した自由で平等な関係にある商品所有者が,相互に利益を交換するために契約関係を取り結ぶのは当然のことであった。こうした契約関係の例として,17~18世紀に支配的な啓蒙思想としての社会契約説を忘れるわけにはいかない。社会契約説は,国家(社会)の起源を自由・平等な個人の相互契約に求める考え方であるが,各人がそうした契約を取り結ぶのは,各人の生命の安全や,財産などの所有権が国家によって保障されるからである。…
…教会と領主の権力に対抗しつつ,近代国家が形成される過程で成立した主権論は,近代における一元的国家観の最初の形であった。ホッブズやルソーにみられる社会契約説も,共同体から解放された原子的個人から出発して,近代国家の主権を弁証しようとするものであり,やはり一元的国家観に属するものであった。しかし,近代国家の完成に伴う自由主義国家の成立は,こうした一元的国家観を積極的に主張する理由を失わせたといえる。…
…伝統的政体論は,ルネサンス期のユートピア論,宗教戦争期の抵抗権論のなかに生きつづけるが,現実の変動は,その基礎をなす秩序観を突き崩していったのである。政体論に原理的変化をもたらしたのは社会契約説である。ホッブズに典型的に見られるように,自然的個人の欲求の肯定から出発する社会契約説においては,人間の社会性は否定され,伝統的な正しい支配と不正な支配との区別は先験的な意味をもたなくなる。…
…しかも,ホッブズの鋭さは,この課題に哲学的に取り組み,国家の成立メカニズムを,いっさいの実在を運動する物体とみなす物体論,人間を〈生命と感性と理性とをもつ物体〉と規定する人間論の上に基礎づけた点にあった。そこに提示されたのが,(1)自己保存への自然権をもつ人間が,〈暴力的死の恐怖〉の中で向き合う自然状態,(2)自己保存の手段の判定権を,特定の人格に絶対的に授権する契約の締結,(3)絶対主権への服従を存立条件とする国家状態の成立,を基本内容とする〈服従契約としての社会契約説〉にほかならない。絶対主権の正統性を社会契約説によって基礎づけたホッブズのこうした所説には,もとより,多くの矛盾や論理の飛躍が認められる。…
※「社会契約説」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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